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2013/09/07

「左大臣時平」なるウェブ小説も目にしてみた

http://ncode.syosetu.com/n8932i/

大鏡にも「左大臣時平」なるエピソードが設けられていましたが、このウェブ小説は現代の別の方によるウェブ小説です。

日本史悪役の一人な印象が強い藤原時平を主人公としたウェブ小説ですが、延喜の治という後世において理想視(と言うか、過大評価)された、形式的な醍醐天皇親政時における、理想に燃えた貴公子だった時平、彼と友人だった陽成上皇との交流、時平と協力して政務を行い、左遷ではなく、実は自ら当時黄巣の乱等激動的な大陸の情勢に対応する為に自ら大宰府に渡った(菅原)道真の情熱とか結構面白く描かれていたと思います。しかし、無能な君主と見做されていた宇多上皇(法皇)や、道真を嫌っていて、やはり史実通り右大臣辞任を勧告していた三善清行に対しては描き方がちょっと厳しかったかなあとも思いました。

それと、993年(正暦4年)に道真が正一位左大臣、ついで太政大臣を追贈されたのも一条天皇の、藤原道長に対する牽制の意味合いもあったと書かれていて、確かにこの時点で親父・藤原兼家の強引な身内昇進人事の影響で27歳にして従二位・権大納言でしたが、道長ではなく、当時九条流嫡流とされていた長兄、道隆に対する牽制だったのでしょう。

990年(正暦1年)に兼家が太政大臣にも就任し、一条天皇元服加冠役を務めた筈だったのが、間もなく病気となった彼から関白を譲られて20日足らずで摂政、比較的親政にも意欲的だった円融法皇がいなくなった(翌991年(正暦2年)崩御)後、この年の4月にまた関白に転じています。何だか不自然。そして自分より年長の公卿が何人かいた事もあって、大臣(内大臣)との兼任を辞めた事と舅の源重光から譲ってもらってまで権大納言となっていた伊周等息子達を昇進させた事は兼家に倣った例でしたが、確かに一条天皇も「俺が子供だからといって好き勝手しやがって。」とか苦々しく思っていたかもしれません。定子に対する愛情とは別に。あとはこの時期はまた、いずれも時平の外孫(母親が時平の娘)だった藤原頼忠と源雅信が相次いで亡くなったのもあったかもしれません。実際道真の太政大臣追贈は雅信の死の約3ヶ月後の事です。この雅信はまた、小学館版「少年少女日本の歴史」では道長の内覧就任を見て、「道長は実力もあるが、じつに幸運な男じゃな。」とうそぶいていたけど、もうこの時点では既に死んでいたのに、貴様は幽霊か?しかし、その後の中関白家の没落も周知の通りで、隆家の系統が水無瀬家等明治維新まで続いた家が何家か見られたのは救いだったのでしょうが、道真の太政大臣追贈後もいずれも当時としては短命ではなかったけど、雅信の弟の重信(995年(長徳1年)薨去)と時平外曾孫の藤原佐理(998年(長徳4年)薨去。早世した実頼長男・敦敏の息子で、頼忠の甥)が亡くなっています。道真の怨霊ってホントつくづくしつこかったのかもしれません。

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