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2013/09/21

唐風から国風装束への移行とNHK「その時歴史が動いた」

http://www.youtube.com/watch?v=4KBPh8cZQb8&list=FLR_OSclZ9dFa_g6SlW7CjFA&index=10

上記は、you tubeでアップされている「その時歴史は動いた」平将門編ですが、このシリーズを見て自分が第一に思った事は、当時の貴族の服装ですね。唐風から国風への過渡期でああった事が良く正確に書かれていたのではないかという事です。

かっての集英社等の学習漫画等では、高松塚古墳が発掘されてからまだ日が浅かった事もあってか、飛鳥時代の推古朝では奈良時代の唐風装束、平安時代初期、清和朝(応天門の変前後)期では同中期の国風装束姿で描かれてましたが、実は100年前後実際とずれていたわけです。

2004年6月に放送されたこの「その時歴史は動いた」では、束帯姿の上級貴族や、普段着の直衣を着た豪族等(藤原玄明等)も見られた一方、唐風の朝服姿の、将門に降伏した関東各国の国司や中下級貴族(赤系の色の袍を着た)の姿も見られた等身分や勤務場所等の状況に応じてまだ使い分けられていた様子が伺えます。それでは、いつからこの過渡期が始まって終了したか。これは推測の域を出ませんが、私はおそらく過去ログでも述べた通り醍醐朝後期~村上朝前期がその過渡期にあたったのではと思います。

それは律令制の建て直しへの挑戦とその挫折及び王朝国家体制への移行とリンクしていたのでしょう。延喜の治、確かに醍醐天皇は英明な君主で、宇多上皇の藤原北家抑制策の否定(これが行き過ぎた為にあの菅原道真の悲劇を招く事となる。)から連携に転じたのも現実的な転換でしたが、ガチガチの親政ではなく、緩やかな摂関政治だったこの延喜の治、班田収受や延喜格式等意欲的に政策に取り組んだのは良かったのですが、一方907年(延喜7年)にはお手本としていた国(唐)自体が滅んでしまい、主導していた藤原時平も間もなく成果の是非がハッキリ出る前に早世、その後914年(延喜14年)の三善清行による意見封事十二箇条も実際はあまり反映されなかったのは周知の通りですが、奇しくも同時期に時平共々道真左遷に関与していた源光が変死して、藤原忠平が参議に復帰してから僅か6年で太政官首班の右大臣となり、摂関は引き続き置かれませんでしたが、忠平政権が名実共に成立、ほぼ丁度醍醐天皇治世の前半が終了した所ですが、以降以前ほどの積極的な律令制建て直し策は見られなくなります。おそらくこの914年(延喜14年)頃から国風装束への移行が始まったのでしょう。まだほぼ同時期には国風文化の勃興を象徴する出来事の一つだった、宇多法皇主催による亭子院歌合も開催されています。とは言え醍醐朝末期の930年(延長8年)6月26日の、会議中に起きた清涼殿落雷事件では、犠牲者の一人だった「藤原清貫の朝服に火が付いた。」との記録が見えますので、屋敷や遊戯の時等での普段着はともかく、朝廷での大事な行事等ではまだまだ醍醐朝まではガチガチの唐風装束だったかもしれません。後の紫式部の源氏物語における桐壺帝は醍醐天皇がモデルと言われてますが、この時期はまだ微妙な時期だったと言えたでしょう。

http://twitpic.com/cqxmpz

次の朱雀朝前期の933年(承平3年)には既に束帯に付くと思われる裾(きょ)が長すぎるから、もうちっと短くしろーいな命令が下ったという記録が残されてますが、時代がそれよりさらに30年近く下って、村上朝の960年(天徳4年)における天徳内裏歌合での平兼盛VS壬生忠岑の対決時には前者が衣冠束帯を着た記録が残ってますが、遅くともこの頃にはほぼ完全に国風装束に移行が完了したのではと思います。移行に約50年かかったと思われます。この時代はまた、二度にわたって映画化された夢枕獏氏原作「陰陽師」の時代でもありますが、主人公の安倍晴明や源博雅らが壮年期に差し掛かった頃ですね。しかし、上記URはある人のツイッターのページですが、確かに移行自体は完了しても、院政期と全く同じ装束ではなく、国風は国風でもまだいくらか唐風朝服の名残は見られたかもしれません。10世紀末~11世紀初期の藤原道長執政期においても、例えば袍の下は蟻先ではなく、まだ入襴だったかもしれません。しかし、その院政期の、あの某反日大河ドラマでは國村隼氏が演じられていた藤原忠実による富家語談での話です。丁度そうした唐風から国風装束への過渡期に出世していった藤原実頼が背の低さへのコンプレックス故に院政期のファッションだった筈の強装束に既に身を固めていたという逸話が見られるらしいけど、正直おいおいホントかよ?ですね。

150年以上もファッションを先取りしていたという事になりますが、弟の師輔とは違い、とうとう自分の外戚を天皇にする事が出来なかった彼、師輔と村上天皇が先に亡くなり、師輔の外孫だった冷泉天皇が精神病を患っていた為摂関になる事は出来ましたが、外戚関係はありませんでした。もし師輔が生きていたら、引退するか、名誉的に太政大臣に祭り上げられて、師輔は左大臣関白に就任、実際よりも20年早く摂関と太政大臣の分離がなされていたかもしれません。孫の実資は89歳まで現役の右大臣として長生きする等、実頼・師輔兄弟の孫世代としては(おそらく)最後まで生き残って頑張りましたが、結局実頼死後は師輔始祖の九条流が摂関を独占する等はるかに栄えたのですから、実頼及びその子孫達の小野宮流はいわば歴史の敗者です。実資にしたって、長生きの割には子供にはそれほど恵まれず、その遺産も良く継承されなかったのだし。しかもそうなったのも、藤原忠文が平将門の乱で老齢に鞭打って将門討伐に向かおうとしたが、平貞盛・藤原秀郷が先に討ったのを理由に功労を認めなかった報いだとも言われてしまいましたが、実頼の容姿(醜い容貌、低い背丈)を誇張して皮肉った作り話ではないかと思います。

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