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2013/08/18

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」を改めて読んでみた

お盆休みも明日で終わりですが、先々週の日曜日ですね。旧総和町のワンダーグーに買い物に行ったら、仮面ライダーやサイボーグ009等で知らない人はいないであろう石ノ森章太郎氏まで伝記漫画の主人公に取り上げられていたのをたまたま目にしました。奇しくも、最近やはり代表作であった「マンガ日本の歴史」も改めて読む機会がありましたが・・・・・

もう何巻も出ているし、一番印象に残った巻のみ今回は述べますが、第10巻の「承平・天慶の乱と天暦の治」でしたね。承平・天慶の乱については、流れ矢に当たって戦死した平将門の生首が飛んだ伝説とか結構不気味に描かれていたのは良かったと思います。問題は天暦の治の方でしたね。

延喜の治も実際は律令制復興への最後の挑戦及び挫折~王朝国家体制への移行期で、藤原時平ももし長生きしていたらどのような政策を執っていたのかなあでしたが、天暦の治も、残念ながら本来藤原北家嫡流の後継になるべきだった藤原敦敏(藤原忠平の嫡孫、忠平長男実頼の長男)は村上天皇即位直後の947年(天暦1年)に29歳の若さで早世してしまいました。

過去ログでも述べましたが、時平の子孫、菅原道真の怨霊のせいかどうかはともかくとして、確かに直系男子子孫は早々と姿を消しました。しかし、女系においては時平の女が母親だった源雅信・重信兄弟(父は宇多天皇皇子の敦実親王)や実頼次男だった藤原頼忠が後の円融朝から一条朝にかけて大臣となっています。(頼忠は関白にもなっていた。)三男の斉敏も参議どまりでしたが、息子達はいずれも公卿となっており、特に実資は閑院流の祖だった藤原公季亡き後の北家庶流長老として右大臣まで登りつめる等出色の存在でした。頼忠・斉敏の同母兄だった敦敏は残念ながら道真の怨霊を証明する形となってしまいましたが、この年はまた忠平・実頼・師輔が親子3人で大臣の位を独占する事となりました。流石に初の大臣4人制とまでは行きませんでしたが・・・・・・・・(内大臣が常置されるようになったのは10世紀末の一条朝から。)師輔の右大臣昇進で大納言がいなくなったので陽成上皇皇子だった源清蔭と時平次男だった藤原顯忠が翌948年(天暦2年)1月末に大納言 に昇進して昨年4月からの大納言不在の状況は解消されました。しかし、清蔭も950年(天暦4年)には父上皇や忠平の後を追うように亡くなります。

清蔭の死で顕忠が先任の大納言になり、もう一人の大納言には藤原元方が昇進しました。951年(天暦5年)1月の事です。この元方は藤原氏でも既に平城朝期に勢いを失っていた南家出身で、道真の左遷に加担、落雷死した菅根の息子でした。それでも、娘の祐姫が村上天皇との間に第一皇子・広平親王を出産したのですから、祐姫は南家復活の救世主になるかと思われました。しかし、彼女は更衣でしたが、直後には中宮となっていた師輔の娘、安子憲平親王を産み、間もなく立太子されました。後の冷泉天皇です。

もし広平親王が立太子され、元方がもっと長生きしていればどうなっていたか?残念ながら師輔自身は摂政・関白になる事なく、960年(天徳4年)に亡くなりますが、皇太子の外祖父という事で左大臣・実頼、右大臣・顕忠に次ぐ太政官ナンバー3の内大臣となっていたでしょう。この時点でもう72歳となっていますが、ここで摂政・関白になれる資格(大臣を経験)を有する事となります。965年(康保2年)には顕忠も67歳で亡くなりますので、77歳で後任の右大臣に昇進、そして967年(康保4年)の村上天皇崩御及び広平親王即位でついに左大臣実頼を飛び越して関白太政大臣に昇進!!もうこの時点で79歳となっていますが、ありえない事でもありません。しかし、現実にはそれは全くの青写真となってしまいました。

親父が道真の怨霊で死んだと思ったら、今度は彼自身が怨霊となり、三条朝まで続く事となった冷泉系と円融系の皇統両立を終焉させてしまった(もっとも、後三条天皇の母親は三条天皇の皇女だったので後三条天皇の即位で冷泉・円融両系が融合したと見る事もできる。)のは皮肉でしたが、そうした后宮政策等現実には、藤原北家嫡流が政治の主導権を握っていたのは初期摂関政治期にあたる良房・基経期から何ら変わりなかったどころか、その摂関政治確立への土台はさらに固められていったのです。

しかし、この「マンガ日本の歴史」10巻では、村上天皇をやや美化しすぎて、天暦の治を必要以上に過大評価、反面師輔は冴えない風貌なオッサンな描かれ方でしたが、そうした后宮政策等をめぐる師輔VS元方のやり取り及び元方の失意の中での死は殆ど描かれていませんでした。勿論安子が従姉妹でもあった芳子に嫉妬した大鏡でのエピソードもスルーでした。安子が嫉妬の所為で謹慎させられた兄弟達(藤原伊尹、兼通、兼家ら)の取り消しを天皇に迫って撤回させたのなんて、どう見てもこのマンガでの「カッコイイ英明な村上天皇」のイメージとは合いませんからね。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/Emperor_Daigo.jpg

それと服装ですが、村上朝においても天皇や貴族達のそれってまだ唐風の朝服(ただ、藤原時平や三善清行等自分の家である屋敷では立烏帽子をかぶっていたシーンも見られた。)だったけど、醍醐朝後期ごろから国風装束への移行は既に始まっていたでしょう。まあ醍醐朝末期の930年(延長8年)に起きた清涼殿落雷事件では藤原清貫の死について「朝服に火が付いた」との記録が残っているので、この時点ではその移行はまだ終わっておらず、実際上記URからの画像での醍醐天皇御服も後の束帯ではない、唐風装束として描かれてますが、村上天皇の即位前後頃に完了したのではと思います。実際この天皇の治世下においては、政治よりも天徳内裏歌合等文化の面で特筆されます。この歌合については本作でも描かれていた通りです。だから野村萬斎氏主演の映画「陰陽師」における服装考察も正確であると見て良いかもしれません。何故かこの映画では師輔が左大臣という設定でしたが。

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