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2013/07/28

藤原時平の子孫は本当に誰もいなくなったのか

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まあどーでもいい事をのべたこの過去ログでも触れたけど、今年は2013年は昌泰の変で藤原時平と共に菅原道真を失脚させた源光が事故死してからちょうど1100年目にあたります。その藤原時平ですが、周知の通り彼は光より先に亡くなって、子孫が早く断絶したと言われています。

この時平と光の死で時平の弟だった藤原忠平は光の死で時平死去時には参議だったのが最終的には摂政、後に関白太政大臣として人臣を極め、摂関政治確立の基礎を固めた(完全に確立したのは息子の実頼と孫の伊尹・兼通達)のも今更ここで強調すべきことではありませんが、914年(延喜14年)における右大臣昇進時点でまだ完全に嫡流が移ったわけでもなかったんですね。

時平には3人の息子がいて、長男の藤原保忠は親父死亡時点で既に19歳と元服も済ませていたと思われますが、彼の同母妹だった仁善子が醍醐天皇の皇太子・保明親王の御息所となっていたのです。当然忠平もこの皇太子に対する后宮政策を怠っていたわけでもなく、時期は分からないけど、娘の貴子を同じく御息所としています。しかし、921年(延喜21年)には仁善子が康頼王を出産、保忠自身も従三位・権中納言に昇進しています。おそらくこの時期が、道真の怨霊に怯えながらも保忠が将来への希望を最も感じていた時期だったでしょう。923年(延喜23年)1月には中納言に昇進しています。

しかし、直後に保明親王が早世、そこで康頼王が2歳ながらも皇太孫(東宮)となりました。もしこの康頼王が順調に成長していたのならば、王は天皇に即位、翌924年(延長2年)には忠平が左大臣、醍醐天皇の外叔父(天皇生母の胤子が同母姉)だった藤原定方が右大臣となりましたが、保忠は後の藤原兼通みたいにまずは内覧を経て、そこから定方の父で醍醐天皇の外祖父だった藤原高藤以来空席(と言っても、彼が在任していたのは死ぬ間際の1ヶ月程度に過ぎない。)となっていた摂政内大臣になっていたかもしれません。932年(承平2年)の定方死去後はさらに忠平に次ぐ太政官次席の右大臣に昇進していたでしょう。

しかし、間もなく925年(延長3年)にはこの康頼王が夭折してしまいます。彼には他に兄弟がいなかったので、保明親王の男系子孫は早くもいなくなり、保明親王の弟だった寛明親王が翌926年(延長4年)に皇太子となります。後の朱雀天皇でしたが、母親は時平・忠平の妹、穏子だったので皇太子との外戚関係が無くなってしまいました。930年(延長8年)12月には大納言となりますが、それもやはり道真追放に加担していた藤原清貫が清涼殿落雷事件で死去したからであり、そのショックで病に倒れた醍醐天皇の崩御で摂関職も久々に設置されたとは言え、朱雀天皇叔父の忠平が摂政となったので、ますます道真の怨霊に怯える日々を過ごす事になったのは想像に難くなかったでしょう。

そして936年(承平6年)7月に保忠は死去しました。その時のエピソードについてはwikipediaをご覧下さいなのですが、直後の8月には忠平が太政大臣に昇進、手塚治虫作品「鬼丸大将」にも登場していたけど、次兄ながらも常に彼に及ぶ事がなかった仲平が翌937年(承平7年)1月に左大臣に昇進しています。だから太政官ナンバー3でもあった保忠はもし生きていれば・・・・・・・本来は前述通り定方の死去で摂政職とのセットで昇進していたはずだった右大臣になれたはずでした。しかし、実際昇進したのは北家でも傍流で、藤原基経と時平の間の藤氏長者を務めていた藤原良世(時平・仲平・忠平らにとっては大叔父)の息子だった恒佐でした。しかも保忠より11歳年長だった彼も1年余りで死去しています。ホントに大臣がもう目前の所まで行っていたんですね。

三男の敦忠も37歳で亡くなりました。朱雀天皇の後の村上天皇朝においては、忠平が亡くなった後は形式的には摂関職は再び置かれませんでした。醍醐天皇朝と併せて延喜・天暦の治と後世賞賛されたようですが、いずれも政治能力は間違いなくあった、忠平の息子達の実頼と師輔を中心とした北家嫡流が実際の政治の主導権を握っていたのは何ら変わりなかったわけです。特に師輔の方は后宮政策も順調に進めていましたが、緩やかな摂関政治ながらもその完全なる確立は着々と進められていたのです。

叔父さん達並みに長生きした次男の顕忠はそんな10歳年下の従兄弟が先に亡くなったから、その後任の右大臣に昇進しましたが、村上天皇の崩御、奇行が目立った冷泉天皇の即位、そして后宮政策におけるライバルだった源高明の失脚(安和の変)と色々すったもんだはありましたが、ごく一部の時期を除いて忠平の子孫達が摂関職を占める事となりました。孫達の世代になると、佐理(敦忠の息子)みたいに出家したり、下級官人に甘んじたりして、曾孫の世代だともう良くわかりません。

男系は確かに比較的早く子孫達は姿を消しました。しかし、時平の子孫は女系においては末永く続いている家系もあります。それは宇多天皇皇子で醍醐天皇弟だった敦実親王を介してでです。父親よりも長生きした数少ない皇子女だった彼と時平の女(名前は不明)が結婚したのですが、その間に源雅信・重信兄弟等が生まれ、特に雅信は娘の倫子があの藤原道長と結婚したし、息子達も公家においては庭田家等明治維新まで続いた家を輩出したし、武家でも何といってもあの京極氏等の近江源氏が出ています。近江源氏は早くも源平合戦時にも源頼朝に味方したので、武士となった時平の子孫達が、中央で摂関職を独占していた忠平の子孫達を中心とした貴族の世を終わらせて、武士の世を作る事に貢献したと見れない事も無い・・・・・・かもしれません。

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