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2013/07/08

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その1

まず最初に断っておきたいのは、これはちょっと興味を持って調べてみた好事家のちょっとしたエッセイもどきに過ぎないという事です。

太政官と言ったけど、その組織が整ったのは言うまでもなく701年(大宝1年)における大宝律令の制定です。その最高幹部は太政大臣・左大臣・右大臣でしたが、その以前にもこれら大臣職は存在しました。

大化改新が本当に日本書紀で書かれていたような改革が行われたかは100%信用できませんが、代々大臣となっていた蘇我宗本家の権力が突出しており、それがあの乙巳の変を引き起こした原因の一つになってしまったのは確かでしょう。大化改新では蘇我氏宗本家に力を持たせすぎた事にたいする反省もあって、大臣が右と左の2ポスト設けられました。その後671年(天智天皇10年)にさらに上位の太政大臣が設けられましたが、そうした前史を含めた、国政最高決定機関である太政官の首班達の顔ぶれは時代ごとに以下のようにいくつか分けられると思います。

Ⅰ.律令制確立以前~大化改新と第一次皇親政治(645~690年)

大臣が2ポストになったとは言え、天智朝までは適任者がいないと空位な時期も結構見られました。初代左大臣・首班は阿部内麻呂で、初代右大臣・次席は入鹿とは従兄弟ながらも乙巳の変に協力した蘇我倉山田石川麻呂でした。しかし、僅か4年で2人とも、特に石川麻呂は弟・日向の讒言で謀反の疑いをかけられ自殺、退場を余儀なくされます。後任には首班左大臣は山背大兄王粛清にも関与していたはずの巨勢徳多、次席右大臣は大伴氏最初で最後の大臣でもあった大伴長徳が据えられましたが、僅か2年で長徳も死去、徳多も658年(斉明天皇4年)に死去してからは大臣はしばらく不在になりました。内臣・中臣鎌足は健在でしたが、内臣は正式な官職ではないので、この時期の首班はちょっと分かりません。662年(天智天皇1年)には石川麻呂のもう一人の弟だった連子が久々に右大臣になりましたが、彼も2年で死去します。

久々に左右両大臣が揃ったのは671年(天智天皇10年)の事です。それぞれやはり石川麻呂弟だった蘇我赤兄と中臣金でした。しかし、左大臣よりさらに上の太政大臣もほぼ同時に新設され、天智天皇皇子だった大友皇子が任命されました。この時期の太政大臣についてはwikipediaでも書かれていますのでそちらを参照していただきたいですが、もしこの大友皇子が、同年12月3日の天智天皇崩御後に本当に後の弘文天皇として即位していたのなら、左大臣赤兄は連子以来7年ぶりに政権の首班についた事になります。末弟だった果安も、巨勢人・紀大人と同位ながらものちの大納言に相当するナンバー3の御史大夫となりましたが、このように蘇我氏は宗本家が滅んでもまだまだ一定の勢力は維持しており無視できない存在だったのです。しかし、蘇我氏の中興も長続きしませんでした。壬申の乱で大友皇子が伯父の大海人皇子(天武天皇)に敗北し、赤兄は流罪、果安は死罪となったからです。しかも、大海人に味方した彼らの甥の安麻呂(連子の子)も、(おそらく)まもなく早世してしまい、壬申の乱終結時点で石川朝臣を名乗った子の石足がまだ5歳の少年では政治がわかるはずがありません。実は蘇我氏にとっては乙巳の変よりもこの壬申の乱前後で一気に有力な氏族代表者候補がいなくなってしまった事の方が痛手だったのです。かくして石足は41歳になった708年(和銅1年)に漸く正五位上の簡易を貰えましたが、もう蘇我氏が政権の首脳に返り咲く事はありませんでした。姉の娼子が藤原不比等と結婚し、四子の内武智麻呂・房前・宇合と従兄弟だった事もあって、やはり後述する長屋王の排斥に協力、権参議となりましたが、すでに62歳の老人となっており、僅か半年で亡くなりました。蘇我氏は実質80年近くも公卿不在の「冬の時代」が続く事となったのです。

大海人は飛鳥に戻り、673年(天武天皇2年)2月27日に岡本宮で即位しましたが、自ら武力で政権を奪ったので大臣は置かず、皇族中心の政治を推し進めました。しかし、それ故に兄の中大兄が自分を皇太弟にしておきながら大友を太政大臣というポストを設けて事実上時期大王(天皇)候補としたように、大海人も讃良皇后との間に生まれた草壁皇子を皇太子にしておきながら、彼女の亡姉でもあった大田皇女との間の男子・大津皇子を政治に参画させたのです。トップの優柔不断は得てしてロクな結果を生みませんが、天武天皇崩御直後に大津を粛清する事は成功しても、草壁も直ぐには即位させられず結局早世してしまいます。天武皇統というよりは、木本好信氏が指摘していた時より既に早く矮小化されようとしていた持統・草壁皇統の維持の為にも讃良自らが即位(持統天皇)します。

Ⅱ.律令制確立と皇親・藤原政権の交代(690~756年)

しかし、いくら母親の身分が低かったとは言え、天武天皇長子で壬申の乱でも勝利に貢献、また既に夫の草壁が即位していれば皇后になっていた天智皇女・阿へ皇女(元明天皇)の姉、御名部皇女とも結婚していた高市皇子は皇族の重鎮として無視できる存在ではありませんでした。かくして大臣ポストが18年ぶりに復活し、彼が太政大臣として政権首班となりました。次席は右大臣となった、宣化天皇子孫の多治比嶋で、624年(推古天皇32年)生まれの彼は既に66歳の長老でした。高市死後はその嶋が首班に、嶋の後は阿部御主人、そして彼の後はそれぞれ天武天皇の皇子だった忍壁・穂積各親王が太政大臣に準ずる知太政官事としての首班になりました。(これもwikipediaで概要などについては参照してください。)穂積の外祖父はあの蘇我赤兄です。この時期は、さらに3つに分けられますが、初期にあたる720年(養老4年)までは天武天皇皇子達と、「竹取物語」でかぐや姫に求婚した貴族達のモデルにもなった有力氏族の代表者が政権の首班・次席をほぼ独占したのです。

ここでまた注目すべきは、壬申の乱では近江側だった物部麻呂で、「天上の虹」でも最後まで大友皇子に忠節を尽くし、大海人皇子にもそれを高く評価された場面も描かれていましたが、嶋~穂積4人の下でナンバー2として君臨し続けました。穂積の死去で漸く首班になった・・・・・・かと思えば、彼は既に平城遷都が行われた後の藤原京の留守役となっていました。まあその時点で既に70歳になっていた事を考えれば、必ずしも冷たい人事ではありませんでしたが、実際は嶋・御主人、そしてその嶋より少し前に亡くなった大友御行ら有力氏族長老がいなくなった703年(大宝3年)頃からは既に文武天皇と娘・宮子の間に首皇子(聖武天皇)を儲けていた藤原不比等が実際の政治を主導していたと見ていいでしょう。

不比等の死後は、早くも翌日にはやはり天武皇子だった舎人親王が知太政官事となりましたが、既に彼の晩年の718年(養老2年)に非参議から一気に大納言昇進、太政官の次席にのし上がった、高市皇子長男の長屋王による第二次皇親政権としての長屋王政権の誕生です。しかし、「歴史」カテゴリ過去ログでも述べた通り、聖武天皇生母宮子の尊称(これもwikipediaをご覧下さい)を巡って藤原氏と対立する等して10年足らずで今度は不比等の息子達が中心の藤原四子政権が誕生しました。この時期までが中期で、735年(天平7年)の舎人親王死去で右大臣となっていた不比等長男・武智麻呂が政権首班に、次席は前述の多治比嶋の息子だった多治比県守という67歳の長老の爺さんでしたが、彼は中納言。房前ら3人の弟達も参議となり、本来公卿は1氏族1人だったはずが9人中4人が藤原氏出身者となりました。基皇子早世により、妹・安宿媛を皇后としたのは一時しのぎに過ぎませんでしたが、ここで藤原氏は不比等政権期(703?~720年)に次ぐ第二次黄金期を築くかに見えたのです。しかし、それも長続きしませんでした。天然痘が平城京を襲い、公卿の大部分がその病魔に倒れてしまったからです。ここからの残りの期間が後期ですが、長屋王弟の鈴鹿王が舎人死去以来空席となっていた知太政官事となりました。しかし、実際に政権を運営したのは直前に敏達天皇5世王な葛城王から宿禰を賜った橘諸兄でした。ここでまた第三次皇親政治としての橘諸兄政権が誕生したのです。745年(天平17年)の鈴鹿死去で左大臣にまで昇進していた諸兄は名実とともに政権ナンバー1となりました。藤原氏はその前の741年(天平13年)の藤原広嗣の乱でますます衰退したかに見えました、しかし、藤原氏もやはり一時しのぎに過ぎませんでしたが、聖武皇女の阿部内親王を強引に初の女性皇太子に据え、武智麻呂の息子達であった豊成・仲麻呂もしだいに台頭していくことになるのです。長くなりましたので、続きはまた時間ある時に。

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