« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月

2013/07/28

宮崎駿も少々偏り過ぎていないか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130727-00000011-rcdc-cn

宮崎駿:日本は早く従軍慰安婦問題を対処し中韓に謝罪するべきだ―中国メディア

Record China 7月27日(土)12時0分配信   

26日、中国新聞網は記事「宮崎駿:日本は早く従軍慰安婦問題を対処し中韓に謝罪するべきだ」を掲載した。アベノミクスにも懸念を示している。写真は宮崎監督。

2013年7月26日、中国新聞網は記事「宮崎駿:日本は早く従軍慰安婦問題を対処し中韓に謝罪するべきだ」を掲載した。


韓国・聯合ニュースによると、宮崎駿監督は26日、東京で韓国人記者の取材を受け、「日本は早く従軍慰安婦問題に対処し中韓に謝罪するべきだ」と発言した。宮崎監督は二次大戦当時の日本政府は自国民すらも大事にしておらず、当然他国の人も大事にできなかったと発言した。日本はこれまで経済問題ばかりを重視してきたが、それでは経済が悪化すればすべてを失ってしまうと警告した。

また、現在の世界経済の先行きは不透明だと話し、通貨供給量を増やすことは決して良いことではないとアベノミクスを懸念。大事なのは真面目に仕事をして日々を過ごすことだと強調した。(翻訳・編集/KT)

http://whisper-voice.tracisum.com/

宮崎駿氏の思想については、既にこの「日本の面影」と言う、右翼系ブログでも槍玉(このブログ主の思想については、部分的には賛同出来る意見もあるのですが、プリキュアシリーズばかりかセーラームーンシリーズにまでマジレスしていて、「高尚な問題提起をしてやってる俺の考えが理解できない奴はバカ!!」と言わんばかりな上から目線な言い方なので正直好印象は持てない。)に挙げられていましたね。自慰史観も百害あって一利なしだし、「自国民すらも大事にして」いなかったのは確かにその通りかもしれない。

しかし、従軍慰安婦は実態は下手な下っ端士官軍人より全然高給だった報酬等目当ての高級売春婦で、旧日本軍は悪い業者もちゃんと厳しく取り締まっていたらしいし、韓国への補償全般も建前としては朝鮮半島北部も大韓民国領土という事になっている事もあったのか、北朝鮮の分まで有償・無償合わせて莫大な額の金額を補償しています。今までハッキリ言うべきことを言ってこなかった(本来なら橋下徹氏のようなスタンドプレーだけで中身のないパフォーマーなどが出る幕ではなかった。)日本政府も悪かったのだけど、ちょっと調べればそういう自虐史観に凝り固まる事がいかに愚かしく、全く建設的でないかという事はすぐ分かるはずだと思うのですが・・・・・・・

まあジブリを中心としたアニメ作品群なんて、映像技術偏重と一時的な話題性で、役柄とのマッチとかも考えない芸能人の声優起用等のブランド志向(特にポニョの所ジョージ氏はワースト5に入るミスキャストだった。「アルフ」や「トイストーリー」等声優経験もそれなりにあったはずなのが・・・・)等名作なのは過去の話です。細田守氏みたいに「ポスト宮崎駿になりたくてアニメ作っているわけじゃない!!」なんて「もっと俺を評価してくれ!!」と言わんばかりなわがままな事言っているはずが、その宮崎アニメの悪い点を真似ている人もいますが、やはりもう少し言葉を選ぶべきだった例の「震災発言」共々失礼ながら、「彼は老いたのか?」と邪推せざるを得ないです。

既に福沢諭吉だって130年近く前に「日本の不幸は中国と朝鮮にある。いくら隣国だからと言って特別な感情を持ってはいけない。決別して欧米と手を結ぶべきだ。」というような事を言っていますが、ネットで少し調べればすぐ分かる事を正しく認識しようとしないで、自国民の神経を逆なでするような事を言うのは宮崎氏ご本人の為にもなりません。釣りみたいなタイトルだった「憲法9条を世界遺産にしよう。」な本を出した太田光氏もそうなのでしょうが、変に政治とかの話に首突っ込まないで、まずは本業のアニメ制作の方で、もう一度「未来少年コナン」や「ルパン三世カリオストロの城」、「風の谷のナウシカ」等のような名作を作れるよう頑張っていただきたいと私は強く思います。

| | トラックバック (0)

藤原時平の子孫は本当に誰もいなくなったのか

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/3-62b3.html

まあどーでもいい事をのべたこの過去ログでも触れたけど、今年は2013年は昌泰の変で藤原時平と共に菅原道真を失脚させた源光が事故死してからちょうど1100年目にあたります。その藤原時平ですが、周知の通り彼は光より先に亡くなって、子孫が早く断絶したと言われています。

この時平と光の死で時平の弟だった藤原忠平は光の死で時平死去時には参議だったのが最終的には摂政、後に関白太政大臣として人臣を極め、摂関政治確立の基礎を固めた(完全に確立したのは息子の実頼と孫の伊尹・兼通達)のも今更ここで強調すべきことではありませんが、914年(延喜14年)における右大臣昇進時点でまだ完全に嫡流が移ったわけでもなかったんですね。

時平には3人の息子がいて、長男の藤原保忠は親父死亡時点で既に19歳と元服も済ませていたと思われますが、彼の同母妹だった仁善子が醍醐天皇の皇太子・保明親王の御息所となっていたのです。当然忠平もこの皇太子に対する后宮政策を怠っていたわけでもなく、時期は分からないけど、娘の貴子を同じく御息所としています。しかし、921年(延喜21年)には仁善子が康頼王を出産、保忠自身も従三位・権中納言に昇進しています。おそらくこの時期が、道真の怨霊に怯えながらも保忠が将来への希望を最も感じていた時期だったでしょう。923年(延喜23年)1月には中納言に昇進しています。

しかし、直後に保明親王が早世、そこで康頼王が2歳ながらも皇太孫(東宮)となりました。もしこの康頼王が順調に成長していたのならば、王は天皇に即位、翌924年(延長2年)には忠平が左大臣、醍醐天皇の外叔父(天皇生母の胤子が同母姉)だった藤原定方が右大臣となりましたが、保忠は後の藤原兼通みたいにまずは内覧を経て、そこから定方の父で醍醐天皇の外祖父だった藤原高藤以来空席(と言っても、彼が在任していたのは死ぬ間際の1ヶ月程度に過ぎない。)となっていた摂政内大臣になっていたかもしれません。932年(承平2年)の定方死去後はさらに忠平に次ぐ太政官次席の右大臣に昇進していたでしょう。

しかし、間もなく925年(延長3年)にはこの康頼王が夭折してしまいます。彼には他に兄弟がいなかったので、保明親王の男系子孫は早くもいなくなり、保明親王の弟だった寛明親王が翌926年(延長4年)に皇太子となります。後の朱雀天皇でしたが、母親は時平・忠平の妹、穏子だったので皇太子との外戚関係が無くなってしまいました。930年(延長8年)12月には大納言となりますが、それもやはり道真追放に加担していた藤原清貫が清涼殿落雷事件で死去したからであり、そのショックで病に倒れた醍醐天皇の崩御で摂関職も久々に設置されたとは言え、朱雀天皇叔父の忠平が摂政となったので、ますます道真の怨霊に怯える日々を過ごす事になったのは想像に難くなかったでしょう。

そして936年(承平6年)7月に保忠は死去しました。その時のエピソードについてはwikipediaをご覧下さいなのですが、直後の8月には忠平が太政大臣に昇進、手塚治虫作品「鬼丸大将」にも登場していたけど、次兄ながらも常に彼に及ぶ事がなかった仲平が翌937年(承平7年)1月に左大臣に昇進しています。だから太政官ナンバー3でもあった保忠はもし生きていれば・・・・・・・本来は前述通り定方の死去で摂政職とのセットで昇進していたはずだった右大臣になれたはずでした。しかし、実際昇進したのは北家でも傍流で、藤原基経と時平の間の藤氏長者を務めていた藤原良世(時平・仲平・忠平らにとっては大叔父)の息子だった恒佐でした。しかも保忠より11歳年長だった彼も1年余りで死去しています。ホントに大臣がもう目前の所まで行っていたんですね。

三男の敦忠も37歳で亡くなりました。朱雀天皇の後の村上天皇朝においては、忠平が亡くなった後は形式的には摂関職は再び置かれませんでした。醍醐天皇朝と併せて延喜・天暦の治と後世賞賛されたようですが、いずれも政治能力は間違いなくあった、忠平の息子達の実頼と師輔を中心とした北家嫡流が実際の政治の主導権を握っていたのは何ら変わりなかったわけです。特に師輔の方は后宮政策も順調に進めていましたが、緩やかな摂関政治ながらもその完全なる確立は着々と進められていたのです。

叔父さん達並みに長生きした次男の顕忠はそんな10歳年下の従兄弟が先に亡くなったから、その後任の右大臣に昇進しましたが、村上天皇の崩御、奇行が目立った冷泉天皇の即位、そして后宮政策におけるライバルだった源高明の失脚(安和の変)と色々すったもんだはありましたが、ごく一部の時期を除いて忠平の子孫達が摂関職を占める事となりました。孫達の世代になると、佐理(敦忠の息子)みたいに出家したり、下級官人に甘んじたりして、曾孫の世代だともう良くわかりません。

男系は確かに比較的早く子孫達は姿を消しました。しかし、時平の子孫は女系においては末永く続いている家系もあります。それは宇多天皇皇子で醍醐天皇弟だった敦実親王を介してでです。父親よりも長生きした数少ない皇子女だった彼と時平の女(名前は不明)が結婚したのですが、その間に源雅信・重信兄弟等が生まれ、特に雅信は娘の倫子があの藤原道長と結婚したし、息子達も公家においては庭田家等明治維新まで続いた家を輩出したし、武家でも何といってもあの京極氏等の近江源氏が出ています。近江源氏は早くも源平合戦時にも源頼朝に味方したので、武士となった時平の子孫達が、中央で摂関職を独占していた忠平の子孫達を中心とした貴族の世を終わらせて、武士の世を作る事に貢献したと見れない事も無い・・・・・・かもしれません。

| | トラックバック (0)

2013/07/27

これからのアルゼンチン軍も4ツ星将軍がいなくなるのか

http://www.fuerzas-armadas.mil.ar/

http://www.ejercito.mil.ar/site/ejercito/autoridades.asp

http://www.ara.mil.ar/conduccion.asp

http://www.fuerzaaerea.mil.ar/mision/autoridades.html

http://www.gendarmeria.gov.ar/autoridades/index.html

上記URは上からアルゼンチン国軍合同参謀本部、同陸軍将官総覧、同海軍将官総覧、同空軍将官総覧、同国家憲兵隊将官総覧のページです。

陸軍等のHPでは階級も紹介されていて、General de brigada、General de division、Teniente Generalは旧宗主国のスペイン軍ではそれぞれ准将、少将、中将相当(ただし、Teniente Gereralは我が国の自衛隊の各幕僚長もそうだったけど、1997年頃にGeneral de ejercitoが制定されるまでは国防及び陸海空各軍参謀総長は大将扱いとされていた。)ですが、多くの中南米各国軍はGeneral de brigada、General de divisionそれぞれ2ツ星、3ツ星将軍で、アルゼンチン軍について言えば、空軍は大佐からいきなり2ツ星将軍ですが、陸軍はCoronel mayor(上級大佐か)、海軍はComodoro de marina(代将か)という1ツ星階級があります。これらは将官扱いではなく、英軍の准将同様最上級の佐官扱いでしょうが、スペイン軍等より1階級上の少将・中将と訳して差し支えないかと思います。

その上で話を進めますが、最近大幅な人事異動があったようで、基本的に合同及び陸海空参謀総長、そして国家憲兵司令官は大将が充てられてきましたが、合同・海軍各参謀総長が少将、陸軍・空軍各参謀総長が中将のまま新任者が就任したようなのです。合同・海軍各参謀総長は参謀次長も少将階級ですから、就任してしばらく経った後で中将に昇進する可能性(ロシア軍や中国人民解放軍も、軍管区司令官または軍区司令員等階級はいきなり昇進させないで、在任中に昇進させる例が結構ある。)はあり、国家憲兵隊司令官のエンリケ・アルベルト・ザック将軍は肩章から見て、4ツ星大将のようですが、これからは合同及び陸海空各参謀総長は中将、その他将官職は全て少将の指定職となり、大将は中華民国軍の一級上将みたいに「戦時等重大な功績をあげた場合に限り昇進させられる特別階級」となっていくのかもしれません。事実、特に陸軍・海軍は人事異動前は、前者は3人いた中将が、参謀総長以外1人もいなくなってしまったのです。元々中南米各国軍も国の人口自体が多いブラジル軍・メキシコ軍以外は階級インフレにはなっていませんが、アルゼンチン軍もますます階級デフレ化してしまっているとも言えるでしょう。それだけにまた、過去ログでも触れたけど、大将が全軍で40人前後もいるブラジル軍の階級インフレっぷりが余計際立つとも言えますが・・・・・・・

| | トラックバック (0)

2013/07/21

国道6号について思うことその5-仙台南部道路と東部道路

http://www.pref.miyagi.lg.jp/soshiki/road/hikitugisiki.html

つい最近知った事ですが、仙台都市圏高速環状ネットワークの一つである仙台南部道路、宮城県道路公社から東日本高速道路株式会社への移管に伴って国道6号に指定されたんですね。という事は、仙台東部道路も法令上は国道6号扱いですから、交点である仙台若林JCTで国道6号はさらにルートが分かれるという事?しかし、南部道路が国道6号と言われても正直地元の人もピンとこないのではないだろうか?

仙台南部道路は国道6号よりも国道286号(バイパスとして)に指定したほうが良かったでしょう。そして仙台東部道路は亘理町あたりで直接国道6号と接続させて、本道としての国道6号は、岩沼~名取までは今まで通り重複させても、名取~仙台市街までの国道4号本道は6号のみの指定にして、仙台バイパスのみを国道4号指定にした方がしっくりきます。(なお、仙台市街から泉区までの区間は県道に降格されている。)何と言うか、1桁国道なのに実質終点が岩沼では何だか寂しいですし。岩沼で合流させなければ、国道4号だってもっと渋滞緩和されるでしょうから。まあ理想は、まずは国道6号は、4号が新4号等で宇都宮までほとんど4車線化されているように、水戸まで完全4車線化する事ですね。それには千代田石岡バイパスや漸く残り区間の4車線化が始まった土浦バイパスだけでなく、美野里バイパスの事業化・茨城町バイパスの4車線化も始めないと。

| | トラックバック (0)

2013/07/20

福田萌叩きからも見える歪さ

http://www.j-cast.com/2013/07/18179587.html

産休に入っただけで「ずっと休め」「そのまま引退しろ」 なぜかヤフーコメント欄で嫌われる福田萌

2013/7/18 08:00       

   オリエンタルラジオ・中田敦彦さんの妻でタレントの福田萌さん(28)が「産休に入る」とブログで報告しただけで、なぜかYahoo!ニュースのコメント欄に批判が多数書き込まれる騒ぎとなっている。

   Yahoo!ニュースでは度々、福田さんに関するニュースのコメント欄に批判が殺到するという事態になっている。これまで特に大きな問題を起こしていない福田さんが嫌われる理由とは何なのか?

幸せなニュースなのに「すっこんどけ」「無能なママタレ要らん」

   福田さんは2013年6月20日のブログで、3年間パーソナリティーを務めたラジオ番組「The Nutty Radio Show おに魂」(FM NACK5)を、産休を機に卒業、そして7月15日のブログではスマートフォン向け放送局「NOTTV」の番組「スマホのトリセツ」で仕事収めしたと報告し、「明日からはいよいよ産休。カウントダウンが始まった気がする…。」と書いた。

   これらのブログ記事を取り上げたニュース記事がYahoo!ニュースに掲載されたのだが、コメント欄は「ずっと休んで下さい」「ぜひ、このまま引退して下さい」「華もないし話し方は偉そう。早く引退してほしい」「有名人と結婚でもしなかったら、とっくに消えていただろ」など、悪口が並んでいる。

   このほか、福田さんが妊娠発表後初めてイベントに出席したという4月26日のニュース記事には「これ以上無能なママタレは要らん」「もう需要ないと思いますので、子育てに専念して下さい」、イベントで「子どもは学習塾に通わせたくない」と育児論を展開したという5月3日のニュース記事には「あんまりしゃしゃり出てくんなよ。旦那をたてておとなしくすっこんどけ!!」「理想を語るのは勝手だけど、こういう人に限って言うこととやることが違うと思う」など、やはり罵倒コメントが書き込まれている。

オリエンタルラジオ・中田敦彦さんの妻でタレントの福田萌さん(28)が「産休に入る」とブログで報告しただけで、なぜかYahoo!ニュースのコメント欄に批判が多数書き込まれる騒ぎとなっている。

   Yahoo!ニュースでは度々、福田さんに関するニュースのコメント欄に批判が殺到するという事態になっている。これまで特に大きな問題を起こしていない福田さんが嫌われる理由とは何なのか?

幸せなニュースなのに「すっこんどけ」「無能なママタレ要らん」

   福田さんは2013年6月20日のブログで、3年間パーソナリティーを務めたラジオ番組「The Nutty Radio Show おに魂」(FM NACK5)を、産休を機に卒業、そして7月15日のブログではスマートフォン向け放送局「NOTTV」の番組「スマホのトリセツ」で仕事収めしたと報告し、「明日からはいよいよ産休。カウントダウンが始まった気がする…。」と書いた。

   これらのブログ記事を取り上げたニュース記事がYahoo!ニュースに掲載されたのだが、コメント欄は「ずっと休んで下さい」「ぜひ、このまま引退して下さい」「華もないし話し方は偉そう。早く引退してほしい」「有名人と結婚でもしなかったら、とっくに消えていただろ」など、悪口が並んでいる。

   このほか、福田さんが妊娠発表後初めてイベントに出席したという4月26日のニュース記事には「これ以上無能なママタレは要らん」「もう需要ないと思いますので、子育てに専念して下さい」、イベントで「子どもは学習塾に通わせたくない」と育児論を展開したという5月3日のニュース記事には「あんまりしゃしゃり出てくんなよ。旦那をたてておとなしくすっこんどけ!!」「理想を語るのは勝手だけど、こういう人に限って言うこととやることが違うと思う」など、やはり罵倒コメントが書き込まれている。

「インテリ婚」発言で目を付けられた?

   一体なぜ福田さんは嫌われているのか。インターネット上では一因として、12年6月の結婚会見で慶應義塾大学卒業の中田さん、横浜国立大学卒業の自らを指して「インテリ婚」と称したことが挙げられている。当時、自分で「インテリ」と言ってしまうことに反感を持ったという意見が少なからず書き込まれていた。

   また、福田さんは大学在学中の07年から芸能活動を始めたが、10年以降はあまり目立った活動をしていなかった。中田さんとの交際が発覚した12年1月からはまたテレビ番組などの仕事が増えたということもあり、中田さんとの結婚がステップアップの手段だったのでは、といったうがった見方もある。

   一方、Yahoo!コメント欄に負けず劣らず罵詈雑言が書き込まれることの多い2ちゃんねるは、「福田さん叩き」に対しては批判的だ。

   今回のコメントを見た人から、「狂ってるわwこう言うヤツにとっては産休すら叩くネタなのか?」「これのどこに批判する要素あるんだよ」「結局話題になる可愛い女が許せないんじゃ」といった書き込みが寄せられている。

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/cat33909216/index.html

福田萌氏とやらについては以前過去ログでも取り上げて、肯定的なコメントを述べましたが、既にこの時においても、叩いていた人がいたんですね。

たとえ彼女が無能な4流以下なママタレだったとしてもです。生涯の良きパートナーと巡り合って結婚して、これからの日本を支える子供を授かって、その子供を育てる為の休暇を取る事の何がいけないというのですか。一人の女性としての当然の権利だろうに。まあ本当は別に彼女が育児休暇取ろうが、取らないがそんなのはどーでもいいんですよね。ただリア充とかで、ある程度以上の知名度(私は過去ログ記事を目にするまでは彼女の事は知らなかったが)ある人達とかを叩きたくてしょうがないんですよ。そんなのは表向きな口実に過ぎない。ヤフコメと2ちゃんにマトモなコメントを求める事がお門違いなのはもう分かりきってますが、2ちゃんですらドン引きされているのだから救い様がないですよね。福田萌氏叩きに血道をあげている連中って。全くつくづく嫌な世の中になったものです。

| | トラックバック (1)

2013/07/15

大日本帝国陸軍の将官人数と自衛隊の統合司令官

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6c66.html

この過去ログでもちょっと話題にあげましたが・・・・・・

http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201203/06.pdf

上記HPは退役軍人支援施策についてのページですが、ちょっと注目すべきなのは「表3 大正8 年における将校(大将~少佐)の平均年齢」です。少佐から中佐になれるのが半分、中佐から大佐へはさらにその半分というのは、どこの国の軍隊でも大抵そうでしょう。しかし、我が国は旧帝国陸軍も現在の自衛隊も准将およびそれに対応する階級はないので、次はいきなり少将なのは周知の通りです。

イタリア軍(第1次世界大戦前)やギリシャ軍(1936年以前)以外にもかってのスウェーデン軍、ポルトガル軍も准将の階級は設けられておらず、また中南米各国軍もメキシコ軍やニカラグア軍(中将に相当する階級がなく、准将、少将の上がいきなり大将となっている。)等一部の国以外は准将に相当する階級は存在しないですが、この表を見ると大体5人に2人は大佐から少将になれている計算です。総兵員ですが、英語版wikipediaを見てみると、1900年代が38万人で、日中戦争の勃発した1937年も同じぐらいなので、元号では大正8年である1919年もやはり38万人程度でしょう。将官の全人数は表にはない7人の元帥大将を含めると216人ですが、1000人あたりだと0.57人です。ちょっと古いデータですが、2005年時点での米軍が沿岸警備隊を除いた4軍種で0.63人ですので、以外にも(?)将官の人数の割合は高くないのがわかります。ただ、繰り返し言うように准将の階級がない為、少将は旅団長等本来准将ポスト、中将は師団長等本来少将ポストもそれぞれ含む事を留意する必要があるでしょう。何せ、米軍は例えば陸軍はこの時期あたりまでは准将の旅団長の例もあったらしいですが、もう第2次世界大戦後は師団長=少将、旅団長=大佐が原則なのですから。(第2次世界大戦時までは軍司令官は英軍同様中将だったが、軍団長の少将、師団長の准将の例がほとんどだった。当然准将と大佐の壁は厚く、それはwikipediaでの「准将」のページに書かれている通りですが、准将から少将へは3人に2人は昇進できる比率で難易度は高くない。准将ポストは参謀本部の部長、課長や副師団長等が充てられているようです。)次に「表4 大正13 年における将校(大将~少佐)の平均年齢」を見ると、この時点で存命だった元帥大将は川村景明等の4人で含まれないでしょうから、彼らも入れると206人ですから、それほど比率も変わりないと思われます。

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun38.html

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun39.html

そして終戦時の陸軍将官人数もちょっと調べてみました。予備役も含むとの事ですが、間違えてなければ元帥大将4人、大将22人、中将415人、少将607人で計1048人です。総兵力は約600万人まで膨れ上がっていたので1000人あたり約0.17人です。ついでに終戦時の海軍将官ですが、元帥大将1人、大将15人、中将100人、少将255人で計371人でした。ちなみにアメリカ陸軍が元帥4人、大将12人、中将約40人、少将約380人、准将約1000人。ドイツ国防陸軍が1944年時点ですが、元帥16人、上級大将26人、兵科大将170人、中将473人、少将565人の計1250人でした。

ドイツ国防陸軍の場合はシンプルに少将~上級大将が英米軍等の准将~大将に相当すると考えて差し支えないですが、軍集団司令官=元帥または上級大将、軍司令官=兵科大将(大戦前期は上級大将の例も珍しくなかった)、軍団長=兵科大将(やはり希に上級大将か中将)、師団長=中将か少将(大戦末期には希に大佐)で、師団の下は旅団ではなくて連隊でした。だから上級大将と兵科大将の人数比が大きい反面、中将と少将の人数比はそれほどではなかったのです。

ところが、帝国陸軍の場合は総軍司令官=元帥大将または大将、方面軍司令官=大将または中将、軍司令官=中将、師団長=中将、独立旅団長(師団に直属しない)=少将とやけに中将のポストが多かったのです。この点では第一次世界大戦時の帝政ロシア陸軍も似ていました。戦線司令官=兵科大将または中将、軍司令官=やはり兵科大将または中将、軍団長=中将、師団長=中将(希に少将)、旅団長=少将(希に大佐)でした。これは現在のイギリス軍同様最上級の佐官扱いだった准将が18世紀末に廃止されてしまった事もありました。ソ連時代は軍管区【司令官=大将、先任者は上級大将の例も珍しくなく、希にソ連邦元帥】-軍【司令官=中将】-(軍団【軍団長=少将】)-師団【師団長=少将、希に大佐】、そしてロシア連邦となってからは近年の国防改革で統合軍管区【司令官=大将または中将】-軍【司令官=中将または少将?】-旅団【旅団長=大佐か】と時代が下るにつれてだんだんデフレ化している現在のロシア軍では考えられないでしょう。余計。

ロシア軍の話にやや脱線してしまいましたが、実際調べてみたらやっぱり多かった。陸海軍で比率も大きく違います。中将と少将の比は陸軍で0.68、海軍で0.39です。半分近くも昇進できる確率が違います。オーストリア=ハンガリー帝国軍も第一次世界大戦時には陸軍のみ元帥と兵科大将との間に新たに上級大将を設けましたが、帝国陸軍も中将を上級と普通の中将に分けて、上級中将は参謀次長、軍司令官、航空軍司令官、航空総監(兼任航空本部長)、その他重要ポストにあった先任の中将の指定職として充てるべきだったでしょう。そうすれば終戦時点で上級中将は少なくとも50~60人程度、普通の中将は360~370人程度となっていたかと思われます。それでもまだ前述の海軍の比率より高いですがね。

http://the-liberty.com/article.php?item_id=6209

必要な自衛隊の「統合司令官」 防衛省が設置を検討

防衛省が自衛隊の最高指揮官となっている統合幕僚長の下に「統合司令官」を置き、陸海空や統合幕僚監部の指揮に専念する役割を担わせる方針であることを各紙が報じている。

 

そもそも世界の各国でも陸海空などの各軍種の統合運用は長年の大きな課題だ。陸軍と海軍、陸軍と海兵隊、海軍と空軍は、よく言えばライバル、悪く言えば相性の悪い組織同士の組み合わせだ。

 

民間企業などと比較にならない大規模で広範囲な「運用」をしなければならないのだから、統合指揮できる指揮官やその幕僚組織が必要になるのは、当然のことではある。

 

今回の「統合司令官」構想は、2006年、以前は陸海空の3自衛隊の最高会議の議長に過ぎなかった統合幕僚議長に代わって、指揮権を持つ統合幕僚長とそれを補佐する統合幕僚監部を設置したが、これだけでは限界があるとして打ち出されたものだ。その限界は、2011年の東日本大震災の対応や、中国・北朝鮮などへの対処で明らかになってきている。

 

中国の軍拡に対処するためには、島嶼防衛での即応体制強化や、航空・宇宙戦能力やサイバー戦能力の増強にも努めなければならない。

 

今月、日米両国の海軍などが米国ロサンゼルス近郊で大規模な離島奪還訓練を行った際には統合幕僚副長が日本側指揮官となり訓練部隊を指揮した。「統合指揮官」構想は、陸海空の方面隊などに任せてきた「地方分散型」の指揮権を積極的に一元化する取り組みで、日本も米軍に近い部隊指揮を行えるようにするものだ。

 

さらなる国防力強化のためには、対テロや対ゲリラ、対特殊部隊など様々な脅威に対応できる統合組織や統合部隊を常時設置することも必要だろう。陸海空の組織の壁を乗り越える不断のイノベーションが求められる。(弥)

そうかと思えば、ちょっと前の記事ですが、統合司令官の新設を構想しているのだとか。何でも統合幕僚副長を複数制にして、その一人をこの統合司令官と兼任させる等の案があるらしいですが、これって米軍の地域別統合軍のミニバージョンみたいな感じなのですかね。でもそうなると、現在の陸上自衛隊は特に師団は他の国の旅団に毛が生えた程度の規模しかないのに師団長は方面隊総監同様中将相当の将、旅団長や団長が少将相当の将補と制度的なつながりはないはずの帝国陸軍の影響を引きずっているけど、また将官ポストが増えるわけ?統合司令官は将、副司令官は数人いて、やはり将か将補になりそうですよね。と言うか、陸上総隊の話はどうなったんだ?階級インフレ是正の為の准将創設の話もどうなったんだ?有事に備えるのは大事だけど、まずはそっちの方もハッキリするのも大事なのではと。そうそう、あえてURは記さないけど、左翼的な琉球新報はこの統合司令官に対して否定的だったのはわかり易かったと言うか、まあ苦笑させられましたね。彼らの、心の故郷はどうやら日本ではないようなのはもうわかりきっているし、今更目くじら立てる事でもないのでしょうが。

| | トラックバック (0)

2013/07/14

老害と化したのかそれとも本性が改めて出たに過ぎなかったのか

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130713-00000054-dal-ent

石原慎太郎氏 マイク不調にブチギレ スタッフに怒る

デイリースポーツ 7月13日(土)19時26分配信   

 日本維新の会の石原慎太郎共同代表が13日、東京・秋葉原で街頭演説を行い、マイクの不調にいら立ち、スタッフにブチ切れる一幕があった。

 午後3時すぎ、石原共同代表が「暴走老人の石原であります」と話し始めた前後、「フォ~~ン」と激しいマイクの音割れが響きわたった。大事なスピーチを邪魔された共同代表は、「しっかりしろよ!!」とスタッフにカミナリを落とした。3度目の音割れでは、「ごめんなさいね。もっといいマイク、秋葉原で替えてこようかな」と落ち着きを取り戻していたが、その後も音割れは直らず怒りが再燃。23分の演説中に合計8回も音割れが起こり、「しっかりしろよ」と終始、怒鳴っていた。

張本勲も鬼の首を取ったかのような川崎批判、そして彼を擁護したダルビッシュとの論争等ますます老害と化しているというか、まさに「TBSの不良債権」ですが、石原慎太郎もあの例の「妾発言」の次はこれかよ・・・・・・・

そもそも後先考えないでその場その場のパフォーマンスばかりする、「頭の悪いスタンドプレーヤー」な橋下徹と組む事自体間違っていたのだけど、これじゃあもはや怒る価値も無い、鳩ポッポ一連の尖閣発言や安愚楽牧場の不祥事等自分らの瑕には目をつぶるも、自民に対しては批判しかできない民主党の事も笑えない。第三の極なんて夢のまた夢ですよね。実際参議院選もあと1週間となるも、どうやら自民への批判票も民主や維新ではなく、共産党に流れそうですしね。自分も消去法でみんなか共産党にいれるしかないかなあと思っていますが・・・・・・

| | トラックバック (0)

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その3

過去ログからの続きです。

Ⅴ.初期摂関政治から寛平の治~栄える北家長良流と賜姓皇族達(843~897年)

繰り返し言うように、奈良時代は一見天武皇統が飛鳥時代後期から続いて政治・文化等の担い手となっていましたが、その実持統・草壁皇統に、木本好信氏が指摘していたより全然早い、既に天武天皇在命時から矮小化されていました。だから本来日本の天皇制は男尊女卑の宗教的本質等男系絶対主義にも関わらず、男系だけど、女性天皇が僅か80年の間に4人5代も出現する異常事態が起きたのです。しかし、そこまでしながらも草壁皇子の直系男子子孫は彼が681年(天武天皇10年)に立太子されてから60年そこそこしか続かなかったのです。

皇統は天智系に戻り、それでも当初は称徳天皇の異母姉であった井上内親王を通して天武系と融合させる形を取ろうしたのですが、井上と当初皇太子だった他戸親王の廃后・廃太子や氷上川継の乱を経て、天武系は完全に皇位継承から排除されました。こうした天武皇統を反面教師として、桓武天皇も、嵯峨天皇も多くの皇子女を儲けましたが、彼らの世話のために財政的負担が重くなるデメリットが発生しました。だから、姓を賜って臣籍降下する皇族が多数見られるようになりました。

前置きが長くなりましたが、特に平安前期の賜姓皇族で無視できない存在だったのが、嵯峨天皇の二世皇族達だった嵯峨源氏です。最初に君臨したのが源常で、840年(承和7年)に早くも28歳の若さで右大臣、藤原緒嗣に次ぐ次席となっています。そして843年(承和10年)にはその緒嗣の死去でついに首班となりました。この時、仁明天皇の伯父で、諸兄の曾孫だった橘氏公が承和の変もあって一気に次席(大納言)となりました。一族の逸勢失脚はどうやらほとんど影響なかったようです。

常死後はとうとう藤原良房が後任の右大臣及び太政官首班となりましたが、続けて台頭してきたのが常と同時に臣籍降下した兄のです。彼は良房が清和天皇即位でついに太政大臣となった時には右大臣を経ないで大納言から左大臣になりました。そして良房の後任の右大臣には弟の良相が任命されましたが、応天門の変が起こります。詳しい経緯は今更ここで述べる事ではないですが、大納言・伴善男の失脚で、遠祖の金村以来何度も政争に敗れながらもしぶとく生き残ってきた大伴氏(伴氏)がこれでほぼ完全に政治生命を絶たれる事になりましたが、善男に嫌疑をかけられていた信と、善男とグルになって信を逮捕しようとしていた良相もタダでは済まず、政治的影響力を失ってしまい、しかもまもなく二人共亡くなってしまいました。それで良房は既に清和天皇は16歳と当時の感覚で言えば立派な成人男性だったのに人臣初の摂政にまでなったのだから、ホントに出来過ぎた筋書きです。

また平氏は平氏で、桓武天皇孫で淳和朝期に臣籍降下、善男と共に大納言になった平高棟も信・良相とやはり同時期に亡くなったので、これで太政官のナンバー2~5までの4人が一気にいなくなってしまいました。この棚ぼたで信に代わってナンバー2となったのが房前玄孫だった鳥養流の氏公です。曽祖父の鳥養その人は早世してしまいましたが、祖父と父は納言まで出世しており、氏公も良房が養子にしていた基経の妹(実父は長良)・淑子を妻にしていた事もあって右大臣まで出世しました。世渡りが上手かったんですね~しかし、彼も良房より少し前に亡くなり、基経が次席となり、872年(貞観14年)8月には後任の右大臣となりましたが、直後に良房が亡くなります。

信の次に嵯峨源氏で台頭したのは、常・信の臣籍降下時にはまだ生まれてすらいなかったでした。しかし、藤原氏北家長良流の勢いは抑えられず、876年(貞観18年)に基経が陽成天皇の摂政になると、怒って自宅にこもってしまいます。その間、基経が左大臣である自分を飛び越して太政大臣となり、陽成天皇譲位後の皇位継承問題で「嵯峨天皇の皇子である俺にも継承権がある。」と主張したかは本当かどうかハッキリしないようですが、自尊心の強い性格の持ち主だった事は確かだったかもしれません。関白となっていた基経が891年(寛平3年)に先に亡くなったため、また首班に返り咲いた融ですが、次席には氏宗以来19年ぶりに北家傍流の右大臣・良世が据えられます。彼は基経の叔父でした。融死後には首班となり、左大臣となりましたが、まもなく引退します。

ここまで約50年間北家長良流と嵯峨天皇皇子だった賜姓二世皇族が交代で太政官首班を担当していました。宇多天皇は阿衡事件もあって基経死後は摂関を置かず、自分の近臣で周りを固め、政治改革を推進しようとしましたが、その期待のホープが嵯峨源氏ではなく、文徳源氏(文徳天皇皇子)だった源能有と菅原道真です。特に能有は良世引退後に太政官首班・右大臣となりましたが、残念ながら間もなく亡くなってしまいます。これが後々起こる悲劇の伏線になるのです。

Ⅵ.延喜の治の挫折から王朝国家への変容~「見せかけ」の天皇親政と藤原忠平による摂関政治の確立(897~949年)

この能有の死去は宇多天皇にとっても衝撃的だったようです。本来皇統嫡流だった筈の陽成上皇が健在で警戒すべき存在だったのも勿論あったのでしょうが、それ以外にも家父長として君臨していた嵯峨天皇を意識していたのもあったかもしれません。天皇では制約が多いとも思ったのか、まだ12歳だった敦仁親王(醍醐天皇)に譲位して、さらに2年後の899年(昌泰2年)には出家して法皇となります。

しかし、宇多法皇が失敗してしまったのは、基経長男の時平が能有死去時点でもまだ26歳と若かった事もあったのでしょうが、道真をプッシュしすぎてしまった事です。譲位の相談を道真だけにした事、時平共々内覧(関白に準ずる待遇。後の道長も大半は左大臣内覧として政治の実権を握っていた。)の権限を与えた事、時平に次ぐ太政官次席右大臣とした事もそうでしたが、極め付きは天皇と歳が近い弟だった斉世親王に道真の娘を与えた事です。

そもそも宇多法皇その人自身長男でもなく、即位前に一度源定省として臣籍降下していて、短期間で皇族復帰・即位できたのも御父・光孝天皇の意向を汲んだ基経の一決によるものです。前述の阿衡事件も、基経から見れば、別に阿衡が実権があろうとなかろうとどうでもよかったのです。それは娘を宇多天皇の女御としていた目障りな橘氏長者・橘広相を除くのも目的とした、「初めが肝心」とばかりに「お前は俺のおかげで天皇になれたんだから、あまり出過ぎたことするんじゃねーぞ。」な示威行為で、阿衡のアの字が無くても、何らかしら口実を作っていたのは想像に難くなかったでしょう。道真の諫言があろうがなかろうが、ある程度困らせるまで困らせた所で政務を再開していたと思います。

そもそもまた、藤原氏が自分の娘を天皇と結婚させて外戚として力を振るうようになったのも蘇我氏の真似です。だから余計自分達以外の勢力が外戚となる事の危険性も良く熟知しています。そして斉世親王は、諸兄が政権首班として皇親政治を主導していたのも遠い昔、かっての勢いはなかったとは言え、そのようなクレーム的政治紛争で排斥された広相の外孫です。(なお、斉中親王という兄もいたが、彼は6歳で夭折している。)一方で醍醐天皇の母親の藤原胤子は藤原北家でも傍流の良門流の出身です。当然時平達は妹の穏子を入台させてゆくゆくはその間に生まれた皇子を時期天皇にするつもりでしたが、法皇は反対していました。醍醐天皇だって、父と共に臣籍にあったのはまだ物心つかない幼年期の頃でしたが、そんな親父の即位の経緯をしらないわけがありません。いつ都合の良い様に斉世親王に譲位させられるか心中穏やかならざるものがあったでしょう。藤原氏にとっても、広相の排斥には成功しましたが、このままでは最悪道真が天皇の外祖父として藤原氏に取って代わる可能性があります。「実質次男だった斉世には道真の娘を娶らせたのに、天皇には時平妹の入台はダメなんていい加減ふざけんなよ!!」とまで思ったかどうかは知りませんが、道真自身の、そうした外戚としての権力を有する事についての意志の有無とは全く関係なく、もう藤原氏は我慢できなくなったのです。

昌泰の変の詳しい経緯も割愛しますが、斉世親王もタダでは済まず、出家を余儀なくされてしまいます。宇多法皇は確かに名君になる素質はありましたが、その政策・人事等には柔軟性を欠いていました。もっと時平達にも彼らの神経を逆なでしない程度に顔を立ててやるべきでしたが、道真に肩入れしすぎて、避けられたであろう悲劇に追い込んで斉世親王まで巻き込んでしまったのは彼の政治力の限界だったと言わざるを得ません。

道真左遷と同時に元号が昌泰から延喜に改元となり、後に「延喜の治」と呼ばれる、理想的な天皇親政による政治改革が行われたとされました。しかし、醍醐天皇も確かに全くノータッチではなかったのでしょうが、そうした一連の政治改革の主導権を握っていたのは首班の時平で、次席の右大臣には道真排斥に協力した仁明天皇皇子、つまり醍醐天皇にとっては大叔父にあたる源光が据えられました。また時平は宇多法皇の事も無視していたわけではなく、娘の褒子も法皇に与えています。そして法皇の近臣で、道真とも親交があった弟の忠平も、908年(延喜8年)に参議に復帰していますが、やはり時平にとっても無視できない存在だったのでしょう。時平は間もなく翌909年(延喜9年)には38歳の若さで早世、首班は光が据えられましたが、彼も道真の祟りのせいだったのか、4年後の913年(延喜13年)に事故死してしまいます。ここで時平早世時には参議に過ぎなかった忠平があっという間に藤氏長者・太政官首班右大臣にまで登りつめました。

そもそも延喜の治自体、律令制回帰を目指した寛平の治の延長に過ぎなかったのか、それとも寛平の治は実は後の王朝国家への転換策で、延喜の治はそうした転換策に対する反動的政策だったのかその性質が大きく2つに分かれているらしいです。大鏡にもその政治手腕を高く評価されていた時平、果たして長生きしていればどのように対応できていたのかですが、「寛平の治はやはり律令制回帰策で、延喜の治は単なる延長にとどまらず、時平在命時の前半期はもっと徹底した改革を行おうとしたが、後半期は忠平が延喜式等現実的な政策のみは継承し、人別支配を基にした班田収受等時代に合わなくなった非現実的政策は徐々に放棄していく等王朝国家体制移行への準備等を主導していった。」と見るのが妥当かもしれません。そして本格的な移行が開始されたのが、彼が摂政となった朱雀朝だったのでしょう。

忠平は一般的には「平将門が京で働いていた時のご主人様」程度の知名度しかないでしょうが、実はそうした時代の変化に柔軟に対応し、そうした「大きな政府」→「小さな政府」の大変革を目立った軋轢を生じさせる事なく概ね円滑に定着させていく等優れたバランス感覚を持った名政治家だったと思います。太政官の首班には36年も君臨し、これは律令制施行前に大臣を54年間努めた蘇我馬子には及びませんでしたが、養祖父の良房の18年の倍ではありました。この間ライバルと言えた政敵とかも存在せず、源昇も嵯峨天皇三世子孫としては出色の次席大納言まで昇進しましたが、せいぜい彼と醍醐天皇の叔父だった藤原定方(胤子の兄弟)が醍醐朝後期に次席として右大臣を努めたのが目立った程度だったのも大きかったのでしょう。初めて同一天皇在位時に摂政から関白となる等摂関政治確立の基礎も作り、地方武士にも委託した「小さな政府」も平将門・藤原純友鎮圧等機能しうる事を証明しました。宇多法皇より全然柔軟性とかもあったわけです。そして晩年には村上天皇下で引き続き関白の任を全うし、大臣の位を息子の実頼・師輔との3人で独占しました。昌泰の変や承平天慶の乱等のアクシデントが起きても政治生命が脅かされるには至らず、当時としては長生きして人臣を極める等真に幸福な人生を送ったと言って良かったでしょう。やはり長くなったのでまたここで切ります。

| | トラックバック (0)

2013/07/13

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その2

過去ログからの続きです。

Ⅲ.仲麻呂と道鏡~持統・草壁皇統の消滅と平安遷都(756~796年)

756年(天平勝宝8歳)に橘諸兄が聖武上皇を誹謗中傷としたとされて、引退、まあこれは藤原仲麻呂にハメられた可能性が高いですが、これで20年近く続いた諸兄政権が終わります。これで皇族が主体的に中心となってリードした最後の皇親政治は終焉したと言って良いでしょう。

この仲麻呂は凄い唐びいきで、太政官も一時乾政官と改称されていました。大陸の政治の良いところをさらに取り入れようと内政でも頑張っていましたが、外政でも一時新羅征討を計画する等アクティブでした。

この前後の時期はまた、壬申の乱で衰退した氏族の中興も見られたのも特徴的でした。橘諸兄政権時では、流罪になった巨勢比等の息子だった奈弓麻呂(実際は弓の下にヨコ線がつく)が80歳近い老人となっていた749年(天平勝宝1年)に諸兄・藤原豊成に次ぐナンバー3の大納言となりましたが、仲麻呂政権時でも幼少時に大叔父(赤兄・果安)の流罪または死罪、父(安麻呂)の早世という不運に見舞われた石川石足の子、年足が757年(天平勝宝9年)に中納言ながら再従兄弟(房前次男)の永手と同じ太政官ナンバー2に。760年(天平宝字3年)には永手を追い越して大納言となり、単独のナンバー2になりました。彼も既に72歳の老人だった事もあって、流石に大臣にはなれませんでしたが、有間皇子粛清にも加担していた曽祖父の弟、赤兄に次ぐ蘇我氏(石川朝臣)の中興期を現出しました。蘇我氏最後の輝きの星だったとも言えます。しかし、いちいち詳細は述べませんが、いかんせん仲麻呂は祖父の不比等と違い、必要以上を反感を買わないようにしようとする配慮が欠けていたので、やがて叔母でもあった光明皇太后崩御後、従兄妹の孝謙上皇とそりが合わなくなり、最期は自滅したようなものでした。

代わりに政権の首班となったのが、太政大臣禅師となった道鏡でした。藤原氏も諸兄とほぼ同時期に弟・仲麻呂によって失脚させられた豊成が右大臣復帰し、道鏡に次ぐ政権ナンバー2となりましたが、数年で死去し、今度は永手がナンバー2、まもなく左大臣に昇進しました。「女帝の手記~孝謙・称徳天皇物語」では、「何も染まっていなかった」道鏡とその一族への王朝交代を果たす事で、自分のような人間が出てこないためにも天皇家を利用していた藤原氏を潰すつもりだった称徳天皇の意志が描かれていましたが、道鏡は物部氏の傍系、弓削氏の出身で、後に大納言となり、日本初の公開図書館を作った石上宅嗣(その1で触れた麻呂の孫)とも遠い親戚でした。何も染まっていなかったわけではなかったのです。それに壬申の乱で有力代表者候補が(一時)いなくなってしまった巨勢氏や蘇我氏とは違い、既に藤原氏は多数の一族を抱えていました。蘇我氏以前にも、実は継体天皇より前の大王家って、特定の血族にはこだわっていなかった説もありますが、支配範囲はごく限られながらも葛城氏や平群氏のような、大王家を利用して勢威を振るっていた氏族は存在しました。残念ながら宇佐八幡宮の信託が称徳の思惑の通りにいったとしても、王朝交代が実現した可能性はかなり低かったでしょう。仮に実現したとしても、絶対第2の蘇我氏・藤原氏は登場してきたと思います。まあ現代でも雅子皇太子妃の実家の小和田家がそうなりそうになりましたが。

いずれにせよ、道鏡の天下は所詮称徳天皇いてこそで、宇佐八幡信託での即位失敗も経た称徳の崩御で道鏡は失脚、ナンバー2の永手、ナンバー3の吉備真備(右大臣)がそれぞれ1ランクアップしました。しかし、真備は実は本当に天武天皇孫ながらも臣籍降下していた文屋浄三、大市兄弟を時期天皇に推したのかは100%確実ではないのですが、光仁天皇即位時点で既に75歳の老人、居づらくなったのでしょう。結局すぐに引退し、永手もまもなく亡くなります。ここで首班に立ったのは真備後任の右大臣となった、藤原四兄弟とは再従兄弟だった大中臣清麻呂でしたが、次席は内臣で光仁天皇即位に貢献した藤原良継でした。この清麻呂、とにかく世渡りのうまい老人だったのか、当初皇太子だった他戸親王の東宮傅を努めてましたが、天武系の血(母親の井上内親王が聖武天皇皇女で称徳天皇の異母姉)を引く他戸親王が母親共々天皇を呪ったとして廃されても、続いて本来傍流皇族として一生を終えるはずだった新皇太子・山部親王(桓武天皇)の東宮傅に改めて任命されました。天皇家と外戚関係とかは持ってなかったので、藤原氏からは特に危険視されなかったのでしょう。直後良継は子女・乙牟漏を山部親王に嫁がせ、小殿・神野両親王が生まれました。いずれも後のそれぞれ平城・嵯峨天皇です。

良継は正式に内大臣になったかと思えば、まもなく清麻呂より先になくなりましたが、清麻呂引退後は藤原魚名、田麻呂、是公、継縄と四兄弟の息子または孫世代の有力者が続けて首班に君臨しました。内魚名は北家、田麻呂は式家、あとの2人は南家出身者でした。京家は拙かった事に麻呂の息子だった参議・浜成が山部親王立太子に反対して親王に睨まれていただけでなく、魚名らと共に山部親王即位(桓武天皇)直後に起きた氷上川継の乱に連座してしまった為(浜成の婿がこの川継)にただでさえ遅れを取っていたのが、以後全く政治的に振るわなくなってしまったので、藤原氏の勢力争いは他の3家に絞られる事となります。この川継は、天武天皇皇子、新田部親王の孫で、新田部の母は不比等の妹だったので元々藤原氏とも血縁関係はあったのですが、依然桓武天皇の即位に不満を持っていた勢力もあった事が伺えます。既に断絶していた天武皇統最後の断末魔の叫びだったのかもしれません。

Ⅳ.平安遷都から藤原北家の隆盛と式家の凋落(796~843年)

とは言っても、この時期はほぼ平安時代前期の中の前半と重なりますが、桓武天皇は藤原氏にばかり気を使っていたわけでもなく、天武系の都であった平城京から長岡京を経て平安遷都した後の796年(延暦15年)の継縄死後は蝦夷征討の責任者だった紀古佐美が大納言ながらも首班に。彼は翌年に亡くなりますが、その後は右大臣・神王と大納言・壱志濃親王のコンビが太政官のナンバー1・2を桓武天皇晩年の805年(延暦24年)まで占めます。彼らはいずれも桓武天皇の従兄弟でしたが、ここにも桓武天皇の優れた政治的バランス感覚を見る事が出来るのではとも思います。やはり最後の大帝的存在感をもった天皇だったのでしょう。

その「大帝」桓武天皇の蝦夷征討と平安京建設を中止させたのはやはり先代・光仁天皇から始まる「新天智皇統」の創設に貢献した参議・藤原百川の忘れ形見で式家祖であった宇合の孫だった緒嗣でした。4歳の時に父と死別した彼でしたが、桓武天皇のお気に入りで既にまだ28歳だった802年(延暦21年)には参議となり、公卿の仲間入りを果たしています。だからこそ、天智や天武と共に比較的独裁的だった桓武天皇にもそうした中止を進言できたわけです。

しかし、そうした中止を実現させた時とほぼ同時期に北家から思わぬ伏兵が台頭してきます。北家の祖、房前の孫で真楯の三男だった内麻呂です。真楯その人は有能ながらも当時北家嫡流とされた兄の永手より先に亡くなってしまいましたが、妹の永継が桓武天皇の後宮となっていた縁で天皇即位後出世街道を走る事となりました。途中前述の是公や古佐美、遠赤だった大中臣諸魚、そして蘇我氏出身者では最後の公卿となってしまった石川真守と上席の公卿達が次々と亡くなった幸運もありました。そして桓武天皇崩御と同時期に丁度良く神王と壱志濃親王まで亡くなったのであっという間に首班右大臣となったのです。同じ四兄弟の孫世代でも、756年(天平勝宝8歳)生まれの内麻呂は774年(宝亀5年)生まれの緒嗣より18歳年上だったので致し方ない所もあり、少年時に本来傍流ながらも有能だった父と死別してしまったのはお互い似てましたが、強運の強さでは後の子孫の道長にも通ずるものがあったというか、一枚上手だったと言うべきだったでしょう。

内麻呂が藤原薬子の乱等の難局も乗り切った一方、緒嗣は東北地方に赴任を余儀なくされ、帰京した後の数々の政治改革も頓挫する等颯爽とした国家事業中止の進言も束の間で北家の勢いはとどまることを知りませんでした。内麻呂は812年(弘仁3年)に亡くなりますが、今度は彼の息子で、嵯峨天皇の蔵人頭として重用された冬嗣に押される事になります。いずれもまだ30代だったので、首班には内麻呂の従兄弟(房前7男・楓麻呂の子)であった右大臣園人が君臨しましたが、昇進では常に冬嗣の後塵をはいする事となります。

それでも、姉の旅子と桓武天皇の間の皇子だった大伴親王が後の淳和天皇として即位(この時大伴氏は親王御名と被る事を恐れ多いこととして伴氏に改称している)した事、そして冬嗣が自分よりも先に亡くなった事等の幸運がありました。また同じ式家の吉野がこの頃既に40歳ながらも蔵人頭になっています。

嵯峨天皇が「上皇(もう一人は平城上皇の事。出家していたが、この時はまだ法皇の尊称はなかった。)が2人もいると、財政に負担がかかる。」との反対を押し切ってまでもこの弟に譲位したのは、天武皇統が、天武天皇は持統天皇との間の草壁皇子だけでなく、大田皇女との間の大津皇子、やはりいずれも母親が天智天皇皇女だった長親王、舎人親王系もいて、さらに母親の身分は低かったけど、後の元明天皇の姉でやはり天智天皇皇女だった御名部皇女と結婚して格が上がった高市皇子・長屋王系もあったのに草壁皇子直系の皇位継承に拘って数々の政争等を巻き起こし、女帝を何人も登板させたにも関わらず結局80年そこそこで矮小化された天武皇統としての持統・草壁皇統が断絶してしまった事への反面教師の面もありました。

しかし、そもそも淳和天皇は伯父の他戸親王や早良親王が立太子されながらも最終的には廃太子されてしまったのを見ていたため、本当は即位したくなく、臣籍降下を望んでいたのですが、「そうはいかんざき」だったのです。(古いダジャレですが。これは。)自身が異母妹(母親が平城・嵯峨上皇と同じ乙牟漏)の高志内親王と結婚して、その間に生まれた恒世親王が桓武天皇の三世親王では血縁的に最も高貴な存在だったからです。「血統は劣っていても兄貴の息子」という事で、嵯峨天皇皇子の正良親王を皇太子にする事が出来たのが、「望まない即位」をした淳和天皇せめてもの「抵抗」でした。こうした淳和天皇の慎み深さも実は北家にとって幸運であり、恒世親王の早世もあって正良親王が833年(天長10年)に後の仁明天皇として即位すると、今度は冬嗣の息子の良房が天皇の義兄として出世していく事となります。緒嗣は依然太政官の首班として君臨していましたが、この良房や実際の嫡流となった長良らに対抗すべき家緒が公卿に昇進しないまま早世してしまった事も痛手で、ますます押され気味となってしまいました。なお、緒嗣首班期初期には良岑安世が(おそらく)次席となっていますが、彼は嵯峨上皇・淳和天皇弟であると同時に、良房らにとっては大叔母である永継と桓武天皇との間の子(桓武朝末期に臣籍降下)だった事もあったのでしょう。

とは言え、皇太子には恒世親王とは年の離れた弟の恒貞親王が据えられ、嵯峨系と淳和系交互の皇位継承が否定されたわけではない事を意味しましたが、いつの時代でも家を継ぐという事はその人本人だけの問題ではなく、周りの人達の利害も大きく関わってきます。だからこそそういう連中も、甘い汁を吸おうと必死になります。その結果として様々な争いが今までの歴史で幾多も起きてきて、中国では清朝期には皇帝が生前に皇太子を定めない方式を採っていたのですが、この恒貞親王にも橘逸勢、伴健岑、前述の緒嗣にとっては同家の吉野、そして吉備真備に皇位継承者候補として祭り上げられたあの文屋浄三の孫、秋津と有力者が周囲に幾人も名を連ねていたためにあの承和の変が起きてしまったわけです。勢いを伸長していた北家にとってはビッグクリーンアップ劇でした。自分達にとって危険な連中を一気に一掃できたからです。同じ北家でも、娘が恒貞親王の妃となっていた愛発が失脚しました。緒嗣もまもなく失意の内に死去し、式家が政権の首脳にたつ事はもうありませんでした。彼の人生は、父と早く死別しながらも桓武天皇の寵愛を受けた前半と、続けて順調に昇進はしたが、一枚上手だった北家に押され続け、神経をすり減らしていった後半にわかりやすく分けられると言って良かったでしょう。長くなったのでまたここで一旦切ります。

| | トラックバック (0)

2013/07/08

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その1

まず最初に断っておきたいのは、これはちょっと興味を持って調べてみた好事家のちょっとしたエッセイもどきに過ぎないという事です。

太政官と言ったけど、その組織が整ったのは言うまでもなく701年(大宝1年)における大宝律令の制定です。その最高幹部は太政大臣・左大臣・右大臣でしたが、その以前にもこれら大臣職は存在しました。

大化改新が本当に日本書紀で書かれていたような改革が行われたかは100%信用できませんが、代々大臣となっていた蘇我宗本家の権力が突出しており、それがあの乙巳の変を引き起こした原因の一つになってしまったのは確かでしょう。大化改新では蘇我氏宗本家に力を持たせすぎた事にたいする反省もあって、大臣が右と左の2ポスト設けられました。その後671年(天智天皇10年)にさらに上位の太政大臣が設けられましたが、そうした前史を含めた、国政最高決定機関である太政官の首班達の顔ぶれは時代ごとに以下のようにいくつか分けられると思います。

Ⅰ.律令制確立以前~大化改新と第一次皇親政治(645~690年)

大臣が2ポストになったとは言え、天智朝までは適任者がいないと空位な時期も結構見られました。初代左大臣・首班は阿部内麻呂で、初代右大臣・次席は入鹿とは従兄弟ながらも乙巳の変に協力した蘇我倉山田石川麻呂でした。しかし、僅か4年で2人とも、特に石川麻呂は弟・日向の讒言で謀反の疑いをかけられ自殺、退場を余儀なくされます。後任には首班左大臣は山背大兄王粛清にも関与していたはずの巨勢徳多、次席右大臣は大伴氏最初で最後の大臣でもあった大伴長徳が据えられましたが、僅か2年で長徳も死去、徳多も658年(斉明天皇4年)に死去してからは大臣はしばらく不在になりました。内臣・中臣鎌足は健在でしたが、内臣は正式な官職ではないので、この時期の首班はちょっと分かりません。662年(天智天皇1年)には石川麻呂のもう一人の弟だった連子が久々に右大臣になりましたが、彼も2年で死去します。

久々に左右両大臣が揃ったのは671年(天智天皇10年)の事です。それぞれやはり石川麻呂弟だった蘇我赤兄と中臣金でした。しかし、左大臣よりさらに上の太政大臣もほぼ同時に新設され、天智天皇皇子だった大友皇子が任命されました。この時期の太政大臣についてはwikipediaでも書かれていますのでそちらを参照していただきたいですが、もしこの大友皇子が、同年12月3日の天智天皇崩御後に本当に後の弘文天皇として即位していたのなら、左大臣赤兄は連子以来7年ぶりに政権の首班についた事になります。末弟だった果安も、巨勢人・紀大人と同位ながらものちの大納言に相当するナンバー3の御史大夫となりましたが、このように蘇我氏は宗本家が滅んでもまだまだ一定の勢力は維持しており無視できない存在だったのです。しかし、蘇我氏の中興も長続きしませんでした。壬申の乱で大友皇子が伯父の大海人皇子(天武天皇)に敗北し、赤兄は流罪、果安は死罪となったからです。しかも、大海人に味方した彼らの甥の安麻呂(連子の子)も、(おそらく)まもなく早世してしまい、壬申の乱終結時点で石川朝臣を名乗った子の石足がまだ5歳の少年では政治がわかるはずがありません。実は蘇我氏にとっては乙巳の変よりもこの壬申の乱前後で一気に有力な氏族代表者候補がいなくなってしまった事の方が痛手だったのです。かくして石足は41歳になった708年(和銅1年)に漸く正五位上の簡易を貰えましたが、もう蘇我氏が政権の首脳に返り咲く事はありませんでした。姉の娼子が藤原不比等と結婚し、四子の内武智麻呂・房前・宇合と従兄弟だった事もあって、やはり後述する長屋王の排斥に協力、権参議となりましたが、すでに62歳の老人となっており、僅か半年で亡くなりました。蘇我氏は実質80年近くも公卿不在の「冬の時代」が続く事となったのです。

大海人は飛鳥に戻り、673年(天武天皇2年)2月27日に岡本宮で即位しましたが、自ら武力で政権を奪ったので大臣は置かず、皇族中心の政治を推し進めました。しかし、それ故に兄の中大兄が自分を皇太弟にしておきながら大友を太政大臣というポストを設けて事実上時期大王(天皇)候補としたように、大海人も讃良皇后との間に生まれた草壁皇子を皇太子にしておきながら、彼女の亡姉でもあった大田皇女との間の男子・大津皇子を政治に参画させたのです。トップの優柔不断は得てしてロクな結果を生みませんが、天武天皇崩御直後に大津を粛清する事は成功しても、草壁も直ぐには即位させられず結局早世してしまいます。天武皇統というよりは、木本好信氏が指摘していた時より既に早く矮小化されようとしていた持統・草壁皇統の維持の為にも讃良自らが即位(持統天皇)します。

Ⅱ.律令制確立と皇親・藤原政権の交代(690~756年)

しかし、いくら母親の身分が低かったとは言え、天武天皇長子で壬申の乱でも勝利に貢献、また既に夫の草壁が即位していれば皇后になっていた天智皇女・阿へ皇女(元明天皇)の姉、御名部皇女とも結婚していた高市皇子は皇族の重鎮として無視できる存在ではありませんでした。かくして大臣ポストが18年ぶりに復活し、彼が太政大臣として政権首班となりました。次席は右大臣となった、宣化天皇子孫の多治比嶋で、624年(推古天皇32年)生まれの彼は既に66歳の長老でした。高市死後はその嶋が首班に、嶋の後は阿部御主人、そして彼の後はそれぞれ天武天皇の皇子だった忍壁・穂積各親王が太政大臣に準ずる知太政官事としての首班になりました。(これもwikipediaで概要などについては参照してください。)穂積の外祖父はあの蘇我赤兄です。この時期は、さらに3つに分けられますが、初期にあたる720年(養老4年)までは天武天皇皇子達と、「竹取物語」でかぐや姫に求婚した貴族達のモデルにもなった有力氏族の代表者が政権の首班・次席をほぼ独占したのです。

ここでまた注目すべきは、壬申の乱では近江側だった物部麻呂で、「天上の虹」でも最後まで大友皇子に忠節を尽くし、大海人皇子にもそれを高く評価された場面も描かれていましたが、嶋~穂積4人の下でナンバー2として君臨し続けました。穂積の死去で漸く首班になった・・・・・・かと思えば、彼は既に平城遷都が行われた後の藤原京の留守役となっていました。まあその時点で既に70歳になっていた事を考えれば、必ずしも冷たい人事ではありませんでしたが、実際は嶋・御主人、そしてその嶋より少し前に亡くなった大友御行ら有力氏族長老がいなくなった703年(大宝3年)頃からは既に文武天皇と娘・宮子の間に首皇子(聖武天皇)を儲けていた藤原不比等が実際の政治を主導していたと見ていいでしょう。

不比等の死後は、早くも翌日にはやはり天武皇子だった舎人親王が知太政官事となりましたが、既に彼の晩年の718年(養老2年)に非参議から一気に大納言昇進、太政官の次席にのし上がった、高市皇子長男の長屋王による第二次皇親政権としての長屋王政権の誕生です。しかし、「歴史」カテゴリ過去ログでも述べた通り、聖武天皇生母宮子の尊称(これもwikipediaをご覧下さい)を巡って藤原氏と対立する等して10年足らずで今度は不比等の息子達が中心の藤原四子政権が誕生しました。この時期までが中期で、735年(天平7年)の舎人親王死去で右大臣となっていた不比等長男・武智麻呂が政権首班に、次席は前述の多治比嶋の息子だった多治比県守という67歳の長老の爺さんでしたが、彼は中納言。房前ら3人の弟達も参議となり、本来公卿は1氏族1人だったはずが9人中4人が藤原氏出身者となりました。基皇子早世により、妹・安宿媛を皇后としたのは一時しのぎに過ぎませんでしたが、ここで藤原氏は不比等政権期(703?~720年)に次ぐ第二次黄金期を築くかに見えたのです。しかし、それも長続きしませんでした。天然痘が平城京を襲い、公卿の大部分がその病魔に倒れてしまったからです。ここからの残りの期間が後期ですが、長屋王弟の鈴鹿王が舎人死去以来空席となっていた知太政官事となりました。しかし、実際に政権を運営したのは直前に敏達天皇5世王な葛城王から宿禰を賜った橘諸兄でした。ここでまた第三次皇親政治としての橘諸兄政権が誕生したのです。745年(天平17年)の鈴鹿死去で左大臣にまで昇進していた諸兄は名実とともに政権ナンバー1となりました。藤原氏はその前の741年(天平13年)の藤原広嗣の乱でますます衰退したかに見えました、しかし、藤原氏もやはり一時しのぎに過ぎませんでしたが、聖武皇女の阿部内親王を強引に初の女性皇太子に据え、武智麻呂の息子達であった豊成・仲麻呂もしだいに台頭していくことになるのです。長くなりましたので、続きはまた時間ある時に。

| | トラックバック (0)

2013/07/04

新テニスの王子様第103・104・105話-「恐るべき二刀流、國母和宏!!そして王子様はさらなる飛躍へ・・・・・」

8月号は颯爽としたプレイがカッコよすぎwwwwな越前王子様wwwwとリョーガwwwwが表紙を飾りました!!

無印完全版も絶賛発売中のことですが、本編も、DQN(亜久津)&晴信(真田)VS國母和宏wwww(大曲)&鉄砲(種子島)のバトルが今始まろうとしていました。

まだ図書室での因縁を忘れていないDQN、國母和宏もつくづく几帳面なのか、早朝まで整理作業頑張っていたとか。こいつじゃなくてDQNこそがサーセンwwwwと謝るべきですな。wwwwしかし、試合は晴信皇帝陛下の必殺技を和宏、鉄砲双方余裕で打ち返す等早くもその恐ろしい実力を見せつけます。外野も赤ちゃん達は動揺を隠せませんが、皇帝陛下その人は彼ら以上で、自分のドリンクを勝手に飲む、鉄砲の挑発行為にもついつい声を荒げてしまった。鉄砲もウゼーwwwwwwなのだけど、まさにこれは俺のイメージじゃないっっっっっっ!!!!だったでしょう。口では強がっていますが、とうとう和宏狙いへと作戦を切り替えします。

しかし、相手もそれが気づかないほどバカじゃない。ここで和宏wwwwwが二刀流を披露した!!しかも一人で相当な実力者なはずなDQN&晴信を翻弄!!晴信は何とかこの状況を打開しようとしますが、指図されるのが大嫌いなDQNは聞きません。もういい加減読んでるこっちがこいつをブッとばしたいわ。(# ゚Д゚) しかし、あまりに調子こいていた天罰が下ったのか、彼の顔に晴信の・・・・・・・・その頃リョーガが王子様に実はこの漫画の数少ないマトモな人である鬼おじさん使用の十字ガットを手渡します。これこそが王子様の更なる飛躍の鍵となるのか?

さあ楽しみなテニプリフェスタ開催まであと2ヶ月となりましたが、スクエア8月号連載作品索引でのあの許斐剛大先生のコメント。

「とにかく仕事が山積みなので自分が2人いたらとつくづく思う。ん?誰だ1人で充分だと思ったのは!分身っ!!」wwwwww。

冗談じゃないよwwww。大先生が2人もいたら、下手すれば(全く別の意味でwwwww)笑える漫画を読む機会も2倍になるかもしれないという事じゃないwwwwww。でも、考えたらまた、分身がいたらそんな多忙な漫画家生活の中、4年ぶりにセカンドシングルwwwwとかも出せたかもしれない。あの往年のアイドル、トシちゃん(田原俊彦)も久々にオリコン20位以内に入ったらしいけど、セカンドシングルがもしヒットすれば、先日スペシャルが放送されたHEY!HEY!HEY!でもダウンタウンと関西人同士の夢のトーク実現!!そうすればさらに、許斐大先生の認知度も上昇して、夢のwwwwネスカフェCM出演wwwwも果たせるかもね!!やっぱ2人いた方が良いか!!ドラえもんにでも道具を出してもらって!!まあそれはともかく1人で忙しくても、不世主のイケメン不条理スポーツバトルギャグ漫画として皆に愛され続ける伝道師・許斐剛大先生は全く幸せものである!!これも間違いない!!YES!!YOU CAN!!wwwwYES!!WE CAN!!wwwww

| | トラックバック (0)

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »