« 大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その2 | トップページ | 老害と化したのかそれとも本性が改めて出たに過ぎなかったのか »

2013/07/14

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その3

過去ログからの続きです。

Ⅴ.初期摂関政治から寛平の治~栄える北家長良流と賜姓皇族達(843~897年)

繰り返し言うように、奈良時代は一見天武皇統が飛鳥時代後期から続いて政治・文化等の担い手となっていましたが、その実持統・草壁皇統に、木本好信氏が指摘していたより全然早い、既に天武天皇在命時から矮小化されていました。だから本来日本の天皇制は男尊女卑の宗教的本質等男系絶対主義にも関わらず、男系だけど、女性天皇が僅か80年の間に4人5代も出現する異常事態が起きたのです。しかし、そこまでしながらも草壁皇子の直系男子子孫は彼が681年(天武天皇10年)に立太子されてから60年そこそこしか続かなかったのです。

皇統は天智系に戻り、それでも当初は称徳天皇の異母姉であった井上内親王を通して天武系と融合させる形を取ろうしたのですが、井上と当初皇太子だった他戸親王の廃后・廃太子や氷上川継の乱を経て、天武系は完全に皇位継承から排除されました。こうした天武皇統を反面教師として、桓武天皇も、嵯峨天皇も多くの皇子女を儲けましたが、彼らの世話のために財政的負担が重くなるデメリットが発生しました。だから、姓を賜って臣籍降下する皇族が多数見られるようになりました。

前置きが長くなりましたが、特に平安前期の賜姓皇族で無視できない存在だったのが、嵯峨天皇の二世皇族達だった嵯峨源氏です。最初に君臨したのが源常で、840年(承和7年)に早くも28歳の若さで右大臣、藤原緒嗣に次ぐ次席となっています。そして843年(承和10年)にはその緒嗣の死去でついに首班となりました。この時、仁明天皇の伯父で、諸兄の曾孫だった橘氏公が承和の変もあって一気に次席(大納言)となりました。一族の逸勢失脚はどうやらほとんど影響なかったようです。

常死後はとうとう藤原良房が後任の右大臣及び太政官首班となりましたが、続けて台頭してきたのが常と同時に臣籍降下した兄のです。彼は良房が清和天皇即位でついに太政大臣となった時には右大臣を経ないで大納言から左大臣になりました。そして良房の後任の右大臣には弟の良相が任命されましたが、応天門の変が起こります。詳しい経緯は今更ここで述べる事ではないですが、大納言・伴善男の失脚で、遠祖の金村以来何度も政争に敗れながらもしぶとく生き残ってきた大伴氏(伴氏)がこれでほぼ完全に政治生命を絶たれる事になりましたが、善男に嫌疑をかけられていた信と、善男とグルになって信を逮捕しようとしていた良相もタダでは済まず、政治的影響力を失ってしまい、しかもまもなく二人共亡くなってしまいました。それで良房は既に清和天皇は16歳と当時の感覚で言えば立派な成人男性だったのに人臣初の摂政にまでなったのだから、ホントに出来過ぎた筋書きです。

また平氏は平氏で、桓武天皇孫で淳和朝期に臣籍降下、善男と共に大納言になった平高棟も信・良相とやはり同時期に亡くなったので、これで太政官のナンバー2~5までの4人が一気にいなくなってしまいました。この棚ぼたで信に代わってナンバー2となったのが房前玄孫だった鳥養流の氏公です。曽祖父の鳥養その人は早世してしまいましたが、祖父と父は納言まで出世しており、氏公も良房が養子にしていた基経の妹(実父は長良)・淑子を妻にしていた事もあって右大臣まで出世しました。世渡りが上手かったんですね~しかし、彼も良房より少し前に亡くなり、基経が次席となり、872年(貞観14年)8月には後任の右大臣となりましたが、直後に良房が亡くなります。

信の次に嵯峨源氏で台頭したのは、常・信の臣籍降下時にはまだ生まれてすらいなかったでした。しかし、藤原氏北家長良流の勢いは抑えられず、876年(貞観18年)に基経が陽成天皇の摂政になると、怒って自宅にこもってしまいます。その間、基経が左大臣である自分を飛び越して太政大臣となり、陽成天皇譲位後の皇位継承問題で「嵯峨天皇の皇子である俺にも継承権がある。」と主張したかは本当かどうかハッキリしないようですが、自尊心の強い性格の持ち主だった事は確かだったかもしれません。関白となっていた基経が891年(寛平3年)に先に亡くなったため、また首班に返り咲いた融ですが、次席には氏宗以来19年ぶりに北家傍流の右大臣・良世が据えられます。彼は基経の叔父でした。融死後には首班となり、左大臣となりましたが、まもなく引退します。

ここまで約50年間北家長良流と嵯峨天皇皇子だった賜姓二世皇族が交代で太政官首班を担当していました。宇多天皇は阿衡事件もあって基経死後は摂関を置かず、自分の近臣で周りを固め、政治改革を推進しようとしましたが、その期待のホープが嵯峨源氏ではなく、文徳源氏(文徳天皇皇子)だった源能有と菅原道真です。特に能有は良世引退後に太政官首班・右大臣となりましたが、残念ながら間もなく亡くなってしまいます。これが後々起こる悲劇の伏線になるのです。

Ⅵ.延喜の治の挫折から王朝国家への変容~「見せかけ」の天皇親政と藤原忠平による摂関政治の確立(897~949年)

この能有の死去は宇多天皇にとっても衝撃的だったようです。本来皇統嫡流だった筈の陽成上皇が健在で警戒すべき存在だったのも勿論あったのでしょうが、それ以外にも家父長として君臨していた嵯峨天皇を意識していたのもあったかもしれません。天皇では制約が多いとも思ったのか、まだ12歳だった敦仁親王(醍醐天皇)に譲位して、さらに2年後の899年(昌泰2年)には出家して法皇となります。

しかし、宇多法皇が失敗してしまったのは、基経長男の時平が能有死去時点でもまだ26歳と若かった事もあったのでしょうが、道真をプッシュしすぎてしまった事です。譲位の相談を道真だけにした事、時平共々内覧(関白に準ずる待遇。後の道長も大半は左大臣内覧として政治の実権を握っていた。)の権限を与えた事、時平に次ぐ太政官次席右大臣とした事もそうでしたが、極め付きは天皇と歳が近い弟だった斉世親王に道真の娘を与えた事です。

そもそも宇多法皇その人自身長男でもなく、即位前に一度源定省として臣籍降下していて、短期間で皇族復帰・即位できたのも御父・光孝天皇の意向を汲んだ基経の一決によるものです。前述の阿衡事件も、基経から見れば、別に阿衡が実権があろうとなかろうとどうでもよかったのです。それは娘を宇多天皇の女御としていた目障りな橘氏長者・橘広相を除くのも目的とした、「初めが肝心」とばかりに「お前は俺のおかげで天皇になれたんだから、あまり出過ぎたことするんじゃねーぞ。」な示威行為で、阿衡のアの字が無くても、何らかしら口実を作っていたのは想像に難くなかったでしょう。道真の諫言があろうがなかろうが、ある程度困らせるまで困らせた所で政務を再開していたと思います。

そもそもまた、藤原氏が自分の娘を天皇と結婚させて外戚として力を振るうようになったのも蘇我氏の真似です。だから余計自分達以外の勢力が外戚となる事の危険性も良く熟知しています。そして斉世親王は、諸兄が政権首班として皇親政治を主導していたのも遠い昔、かっての勢いはなかったとは言え、そのようなクレーム的政治紛争で排斥された広相の外孫です。(なお、斉中親王という兄もいたが、彼は6歳で夭折している。)一方で醍醐天皇の母親の藤原胤子は藤原北家でも傍流の良門流の出身です。当然時平達は妹の穏子を入台させてゆくゆくはその間に生まれた皇子を時期天皇にするつもりでしたが、法皇は反対していました。醍醐天皇だって、父と共に臣籍にあったのはまだ物心つかない幼年期の頃でしたが、そんな親父の即位の経緯をしらないわけがありません。いつ都合の良い様に斉世親王に譲位させられるか心中穏やかならざるものがあったでしょう。藤原氏にとっても、広相の排斥には成功しましたが、このままでは最悪道真が天皇の外祖父として藤原氏に取って代わる可能性があります。「実質次男だった斉世には道真の娘を娶らせたのに、天皇には時平妹の入台はダメなんていい加減ふざけんなよ!!」とまで思ったかどうかは知りませんが、道真自身の、そうした外戚としての権力を有する事についての意志の有無とは全く関係なく、もう藤原氏は我慢できなくなったのです。

昌泰の変の詳しい経緯も割愛しますが、斉世親王もタダでは済まず、出家を余儀なくされてしまいます。宇多法皇は確かに名君になる素質はありましたが、その政策・人事等には柔軟性を欠いていました。もっと時平達にも彼らの神経を逆なでしない程度に顔を立ててやるべきでしたが、道真に肩入れしすぎて、避けられたであろう悲劇に追い込んで斉世親王まで巻き込んでしまったのは彼の政治力の限界だったと言わざるを得ません。

道真左遷と同時に元号が昌泰から延喜に改元となり、後に「延喜の治」と呼ばれる、理想的な天皇親政による政治改革が行われたとされました。しかし、醍醐天皇も確かに全くノータッチではなかったのでしょうが、そうした一連の政治改革の主導権を握っていたのは首班の時平で、次席の右大臣には道真排斥に協力した仁明天皇皇子、つまり醍醐天皇にとっては大叔父にあたる源光が据えられました。また時平は宇多法皇の事も無視していたわけではなく、娘の褒子も法皇に与えています。そして法皇の近臣で、道真とも親交があった弟の忠平も、908年(延喜8年)に参議に復帰していますが、やはり時平にとっても無視できない存在だったのでしょう。時平は間もなく翌909年(延喜9年)には38歳の若さで早世、首班は光が据えられましたが、彼も道真の祟りのせいだったのか、4年後の913年(延喜13年)に事故死してしまいます。ここで時平早世時には参議に過ぎなかった忠平があっという間に藤氏長者・太政官首班右大臣にまで登りつめました。

そもそも延喜の治自体、律令制回帰を目指した寛平の治の延長に過ぎなかったのか、それとも寛平の治は実は後の王朝国家への転換策で、延喜の治はそうした転換策に対する反動的政策だったのかその性質が大きく2つに分かれているらしいです。大鏡にもその政治手腕を高く評価されていた時平、果たして長生きしていればどのように対応できていたのかですが、「寛平の治はやはり律令制回帰策で、延喜の治は単なる延長にとどまらず、時平在命時の前半期はもっと徹底した改革を行おうとしたが、後半期は忠平が延喜式等現実的な政策のみは継承し、人別支配を基にした班田収受等時代に合わなくなった非現実的政策は徐々に放棄していく等王朝国家体制移行への準備等を主導していった。」と見るのが妥当かもしれません。そして本格的な移行が開始されたのが、彼が摂政となった朱雀朝だったのでしょう。

忠平は一般的には「平将門が京で働いていた時のご主人様」程度の知名度しかないでしょうが、実はそうした時代の変化に柔軟に対応し、そうした「大きな政府」→「小さな政府」の大変革を目立った軋轢を生じさせる事なく概ね円滑に定着させていく等優れたバランス感覚を持った名政治家だったと思います。太政官の首班には36年も君臨し、これは律令制施行前に大臣を54年間努めた蘇我馬子には及びませんでしたが、養祖父の良房の18年の倍ではありました。この間ライバルと言えた政敵とかも存在せず、源昇も嵯峨天皇三世子孫としては出色の次席大納言まで昇進しましたが、せいぜい彼と醍醐天皇の叔父だった藤原定方(胤子の兄弟)が醍醐朝後期に次席として右大臣を努めたのが目立った程度だったのも大きかったのでしょう。初めて同一天皇在位時に摂政から関白となる等摂関政治確立の基礎も作り、地方武士にも委託した「小さな政府」も平将門・藤原純友鎮圧等機能しうる事を証明しました。宇多法皇より全然柔軟性とかもあったわけです。そして晩年には村上天皇下で引き続き関白の任を全うし、大臣の位を息子の実頼・師輔との3人で独占しました。昌泰の変や承平天慶の乱等のアクシデントが起きても政治生命が脅かされるには至らず、当時としては長生きして人臣を極める等真に幸福な人生を送ったと言って良かったでしょう。やはり長くなったのでまたここで切ります。

|

« 大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その2 | トップページ | 老害と化したのかそれとも本性が改めて出たに過ぎなかったのか »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1159637/52444631

この記事へのトラックバック一覧です: 大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その3:

« 大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その2 | トップページ | 老害と化したのかそれとも本性が改めて出たに過ぎなかったのか »