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2013/07/13

大化改新~藤原頼忠政権時までの太政官の首班(及び次席)達その2

過去ログからの続きです。

Ⅲ.仲麻呂と道鏡~持統・草壁皇統の消滅と平安遷都(756~796年)

756年(天平勝宝8歳)に橘諸兄が聖武上皇を誹謗中傷としたとされて、引退、まあこれは藤原仲麻呂にハメられた可能性が高いですが、これで20年近く続いた諸兄政権が終わります。これで皇族が主体的に中心となってリードした最後の皇親政治は終焉したと言って良いでしょう。

この仲麻呂は凄い唐びいきで、太政官も一時乾政官と改称されていました。大陸の政治の良いところをさらに取り入れようと内政でも頑張っていましたが、外政でも一時新羅征討を計画する等アクティブでした。

この前後の時期はまた、壬申の乱で衰退した氏族の中興も見られたのも特徴的でした。橘諸兄政権時では、流罪になった巨勢比等の息子だった奈弓麻呂(実際は弓の下にヨコ線がつく)が80歳近い老人となっていた749年(天平勝宝1年)に諸兄・藤原豊成に次ぐナンバー3の大納言となりましたが、仲麻呂政権時でも幼少時に大叔父(赤兄・果安)の流罪または死罪、父(安麻呂)の早世という不運に見舞われた石川石足の子、年足が757年(天平勝宝9年)に中納言ながら再従兄弟(房前次男)の永手と同じ太政官ナンバー2に。760年(天平宝字3年)には永手を追い越して大納言となり、単独のナンバー2になりました。彼も既に72歳の老人だった事もあって、流石に大臣にはなれませんでしたが、有間皇子粛清にも加担していた曽祖父の弟、赤兄に次ぐ蘇我氏(石川朝臣)の中興期を現出しました。蘇我氏最後の輝きの星だったとも言えます。しかし、いちいち詳細は述べませんが、いかんせん仲麻呂は祖父の不比等と違い、必要以上を反感を買わないようにしようとする配慮が欠けていたので、やがて叔母でもあった光明皇太后崩御後、従兄妹の孝謙上皇とそりが合わなくなり、最期は自滅したようなものでした。

代わりに政権の首班となったのが、太政大臣禅師となった道鏡でした。藤原氏も諸兄とほぼ同時期に弟・仲麻呂によって失脚させられた豊成が右大臣復帰し、道鏡に次ぐ政権ナンバー2となりましたが、数年で死去し、今度は永手がナンバー2、まもなく左大臣に昇進しました。「女帝の手記~孝謙・称徳天皇物語」では、「何も染まっていなかった」道鏡とその一族への王朝交代を果たす事で、自分のような人間が出てこないためにも天皇家を利用していた藤原氏を潰すつもりだった称徳天皇の意志が描かれていましたが、道鏡は物部氏の傍系、弓削氏の出身で、後に大納言となり、日本初の公開図書館を作った石上宅嗣(その1で触れた麻呂の孫)とも遠い親戚でした。何も染まっていなかったわけではなかったのです。それに壬申の乱で有力代表者候補が(一時)いなくなってしまった巨勢氏や蘇我氏とは違い、既に藤原氏は多数の一族を抱えていました。蘇我氏以前にも、実は継体天皇より前の大王家って、特定の血族にはこだわっていなかった説もありますが、支配範囲はごく限られながらも葛城氏や平群氏のような、大王家を利用して勢威を振るっていた氏族は存在しました。残念ながら宇佐八幡宮の信託が称徳の思惑の通りにいったとしても、王朝交代が実現した可能性はかなり低かったでしょう。仮に実現したとしても、絶対第2の蘇我氏・藤原氏は登場してきたと思います。まあ現代でも雅子皇太子妃の実家の小和田家がそうなりそうになりましたが。

いずれにせよ、道鏡の天下は所詮称徳天皇いてこそで、宇佐八幡信託での即位失敗も経た称徳の崩御で道鏡は失脚、ナンバー2の永手、ナンバー3の吉備真備(右大臣)がそれぞれ1ランクアップしました。しかし、真備は実は本当に天武天皇孫ながらも臣籍降下していた文屋浄三、大市兄弟を時期天皇に推したのかは100%確実ではないのですが、光仁天皇即位時点で既に75歳の老人、居づらくなったのでしょう。結局すぐに引退し、永手もまもなく亡くなります。ここで首班に立ったのは真備後任の右大臣となった、藤原四兄弟とは再従兄弟だった大中臣清麻呂でしたが、次席は内臣で光仁天皇即位に貢献した藤原良継でした。この清麻呂、とにかく世渡りのうまい老人だったのか、当初皇太子だった他戸親王の東宮傅を努めてましたが、天武系の血(母親の井上内親王が聖武天皇皇女で称徳天皇の異母姉)を引く他戸親王が母親共々天皇を呪ったとして廃されても、続いて本来傍流皇族として一生を終えるはずだった新皇太子・山部親王(桓武天皇)の東宮傅に改めて任命されました。天皇家と外戚関係とかは持ってなかったので、藤原氏からは特に危険視されなかったのでしょう。直後良継は子女・乙牟漏を山部親王に嫁がせ、小殿・神野両親王が生まれました。いずれも後のそれぞれ平城・嵯峨天皇です。

良継は正式に内大臣になったかと思えば、まもなく清麻呂より先になくなりましたが、清麻呂引退後は藤原魚名、田麻呂、是公、継縄と四兄弟の息子または孫世代の有力者が続けて首班に君臨しました。内魚名は北家、田麻呂は式家、あとの2人は南家出身者でした。京家は拙かった事に麻呂の息子だった参議・浜成が山部親王立太子に反対して親王に睨まれていただけでなく、魚名らと共に山部親王即位(桓武天皇)直後に起きた氷上川継の乱に連座してしまった為(浜成の婿がこの川継)にただでさえ遅れを取っていたのが、以後全く政治的に振るわなくなってしまったので、藤原氏の勢力争いは他の3家に絞られる事となります。この川継は、天武天皇皇子、新田部親王の孫で、新田部の母は不比等の妹だったので元々藤原氏とも血縁関係はあったのですが、依然桓武天皇の即位に不満を持っていた勢力もあった事が伺えます。既に断絶していた天武皇統最後の断末魔の叫びだったのかもしれません。

Ⅳ.平安遷都から藤原北家の隆盛と式家の凋落(796~843年)

とは言っても、この時期はほぼ平安時代前期の中の前半と重なりますが、桓武天皇は藤原氏にばかり気を使っていたわけでもなく、天武系の都であった平城京から長岡京を経て平安遷都した後の796年(延暦15年)の継縄死後は蝦夷征討の責任者だった紀古佐美が大納言ながらも首班に。彼は翌年に亡くなりますが、その後は右大臣・神王と大納言・壱志濃親王のコンビが太政官のナンバー1・2を桓武天皇晩年の805年(延暦24年)まで占めます。彼らはいずれも桓武天皇の従兄弟でしたが、ここにも桓武天皇の優れた政治的バランス感覚を見る事が出来るのではとも思います。やはり最後の大帝的存在感をもった天皇だったのでしょう。

その「大帝」桓武天皇の蝦夷征討と平安京建設を中止させたのはやはり先代・光仁天皇から始まる「新天智皇統」の創設に貢献した参議・藤原百川の忘れ形見で式家祖であった宇合の孫だった緒嗣でした。4歳の時に父と死別した彼でしたが、桓武天皇のお気に入りで既にまだ28歳だった802年(延暦21年)には参議となり、公卿の仲間入りを果たしています。だからこそ、天智や天武と共に比較的独裁的だった桓武天皇にもそうした中止を進言できたわけです。

しかし、そうした中止を実現させた時とほぼ同時期に北家から思わぬ伏兵が台頭してきます。北家の祖、房前の孫で真楯の三男だった内麻呂です。真楯その人は有能ながらも当時北家嫡流とされた兄の永手より先に亡くなってしまいましたが、妹の永継が桓武天皇の後宮となっていた縁で天皇即位後出世街道を走る事となりました。途中前述の是公や古佐美、遠赤だった大中臣諸魚、そして蘇我氏出身者では最後の公卿となってしまった石川真守と上席の公卿達が次々と亡くなった幸運もありました。そして桓武天皇崩御と同時期に丁度良く神王と壱志濃親王まで亡くなったのであっという間に首班右大臣となったのです。同じ四兄弟の孫世代でも、756年(天平勝宝8歳)生まれの内麻呂は774年(宝亀5年)生まれの緒嗣より18歳年上だったので致し方ない所もあり、少年時に本来傍流ながらも有能だった父と死別してしまったのはお互い似てましたが、強運の強さでは後の子孫の道長にも通ずるものがあったというか、一枚上手だったと言うべきだったでしょう。

内麻呂が藤原薬子の乱等の難局も乗り切った一方、緒嗣は東北地方に赴任を余儀なくされ、帰京した後の数々の政治改革も頓挫する等颯爽とした国家事業中止の進言も束の間で北家の勢いはとどまることを知りませんでした。内麻呂は812年(弘仁3年)に亡くなりますが、今度は彼の息子で、嵯峨天皇の蔵人頭として重用された冬嗣に押される事になります。いずれもまだ30代だったので、首班には内麻呂の従兄弟(房前7男・楓麻呂の子)であった右大臣園人が君臨しましたが、昇進では常に冬嗣の後塵をはいする事となります。

それでも、姉の旅子と桓武天皇の間の皇子だった大伴親王が後の淳和天皇として即位(この時大伴氏は親王御名と被る事を恐れ多いこととして伴氏に改称している)した事、そして冬嗣が自分よりも先に亡くなった事等の幸運がありました。また同じ式家の吉野がこの頃既に40歳ながらも蔵人頭になっています。

嵯峨天皇が「上皇(もう一人は平城上皇の事。出家していたが、この時はまだ法皇の尊称はなかった。)が2人もいると、財政に負担がかかる。」との反対を押し切ってまでもこの弟に譲位したのは、天武皇統が、天武天皇は持統天皇との間の草壁皇子だけでなく、大田皇女との間の大津皇子、やはりいずれも母親が天智天皇皇女だった長親王、舎人親王系もいて、さらに母親の身分は低かったけど、後の元明天皇の姉でやはり天智天皇皇女だった御名部皇女と結婚して格が上がった高市皇子・長屋王系もあったのに草壁皇子直系の皇位継承に拘って数々の政争等を巻き起こし、女帝を何人も登板させたにも関わらず結局80年そこそこで矮小化された天武皇統としての持統・草壁皇統が断絶してしまった事への反面教師の面もありました。

しかし、そもそも淳和天皇は伯父の他戸親王や早良親王が立太子されながらも最終的には廃太子されてしまったのを見ていたため、本当は即位したくなく、臣籍降下を望んでいたのですが、「そうはいかんざき」だったのです。(古いダジャレですが。これは。)自身が異母妹(母親が平城・嵯峨上皇と同じ乙牟漏)の高志内親王と結婚して、その間に生まれた恒世親王が桓武天皇の三世親王では血縁的に最も高貴な存在だったからです。「血統は劣っていても兄貴の息子」という事で、嵯峨天皇皇子の正良親王を皇太子にする事が出来たのが、「望まない即位」をした淳和天皇せめてもの「抵抗」でした。こうした淳和天皇の慎み深さも実は北家にとって幸運であり、恒世親王の早世もあって正良親王が833年(天長10年)に後の仁明天皇として即位すると、今度は冬嗣の息子の良房が天皇の義兄として出世していく事となります。緒嗣は依然太政官の首班として君臨していましたが、この良房や実際の嫡流となった長良らに対抗すべき家緒が公卿に昇進しないまま早世してしまった事も痛手で、ますます押され気味となってしまいました。なお、緒嗣首班期初期には良岑安世が(おそらく)次席となっていますが、彼は嵯峨上皇・淳和天皇弟であると同時に、良房らにとっては大叔母である永継と桓武天皇との間の子(桓武朝末期に臣籍降下)だった事もあったのでしょう。

とは言え、皇太子には恒世親王とは年の離れた弟の恒貞親王が据えられ、嵯峨系と淳和系交互の皇位継承が否定されたわけではない事を意味しましたが、いつの時代でも家を継ぐという事はその人本人だけの問題ではなく、周りの人達の利害も大きく関わってきます。だからこそそういう連中も、甘い汁を吸おうと必死になります。その結果として様々な争いが今までの歴史で幾多も起きてきて、中国では清朝期には皇帝が生前に皇太子を定めない方式を採っていたのですが、この恒貞親王にも橘逸勢、伴健岑、前述の緒嗣にとっては同家の吉野、そして吉備真備に皇位継承者候補として祭り上げられたあの文屋浄三の孫、秋津と有力者が周囲に幾人も名を連ねていたためにあの承和の変が起きてしまったわけです。勢いを伸長していた北家にとってはビッグクリーンアップ劇でした。自分達にとって危険な連中を一気に一掃できたからです。同じ北家でも、娘が恒貞親王の妃となっていた愛発が失脚しました。緒嗣もまもなく失意の内に死去し、式家が政権の首脳にたつ事はもうありませんでした。彼の人生は、父と早く死別しながらも桓武天皇の寵愛を受けた前半と、続けて順調に昇進はしたが、一枚上手だった北家に押され続け、神経をすり減らしていった後半にわかりやすく分けられると言って良かったでしょう。長くなったのでまたここで一旦切ります。

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