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2013年6月

2013/06/29

mugenオメガルガールの面白動画その6

http://www.youtube.com/watch?v=tYBnRQZnB-U&list=FLR_OSclZ9dFa_g6SlW7CjFA

これはある特定のキャラに、勝つまで挑戦し続けるシリーズですが、まあ相手がスパ2X豪鬼じゃ、既にルガールはカプエスシリーズで何度か共演しているから新鮮味には欠けるかも?しかし、ギガンテックプレッシャーでやっと豪鬼の息の根を止めた後の、あの胸を引っ掻いて雄叫びを上げた勝利シーンは格別ですなww。「死ね!!!」「うぉぉぉっっっっっ!!!!」。

http://www.youtube.com/watch?v=s8irLU8IuGA

そしてこれは強力若本ボイスなイグニスが相手のシリーズでしたが、やっぱイグニスも鬼畜と言うか、これでは95オメガルガールもまだ可愛く感じられます。

もしKOF95がリメイクされるとすれば、ルガールのこういう点を変更したいと思います。

・通常技は98UM以降ベースとし、遠Bや遠Cもキャンセル可能。遠Dも牽制や遠距離からの対空に使えるようにする

・烈風拳は2002及び2002UMほどではないにせよ、射出後の硬直を短くし、カイザーウェーブも発生を速くする。ジェノサイドカッターも発生後まで無敵時間が持続するようにする。ダークバリアの性能はそのまま。またカプエス2みたいに空中のみであるが、ダークスマッシュを実装させる。

・超必殺技はギガンテックプレッシャーは連続技に組み込めるようにし、オリジナルでは実装されていなかったディストラクションオメガも使えるようにする。

オリジナル95でも京・庵と共に3強ではありましたが、この強化を実施すればまさに凶悪な強さを誇る事間違いないでしょう。しかし、劣化してしまっている今の新居利光氏の演技ではちょっと難しいかも・・・・・・・・やはりここはプレイモアお家芸な「使い回し」をするしかないのか?

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2013/06/22

富士山、いよいよ世界遺産登録へ

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2013062201001800/1.htm

富士山、世界遺産に登録決定

 

 

2013年6月22日(土)17時35分配信 共同通信

 

 

 

 

 カンボジアの首都プノンペンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第37回世界遺産委員会は22日、日本政府が推薦した「富士山」(山梨県、静岡県)を世界文化遺産に登録することを決めた。山岳信仰の対象であり、浮世絵など多くの芸術作品に描かれた日本の象徴として、文化的な価値を高く評価した。国内の世界遺産は17件目。政府が富士山の一部として推薦した景勝地「三保松原」(静岡市)も含めての登録となった。

 

世界遺産登録は日本人として素直に「おめでとう!」です。しかし、私事ながら先週自分は県内某市で開催された労働安全衛生集会に、職場からの命令で参加してきて、5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)についての講演を中心とした講習を受講してきました。その講演での5Sの事例はどれも徹底したレベルの高い事例ばかりで、至らなさを改めて痛感させられた体験をしてきましたが、富士山のゴミ問題もその5Sと同じだと思います。それに合わせてゴミ掃除作業とかやっていたようですが、その根本的な要因を冷静に見つめ、再発防止に務めなければ結局は変わりません。この登録を機に「環境にもやさしい富士山」として生まれ変わればですね。しかし、ヤフコメではまたこのおめでたい出来事を嫌中・嫌韓と結びつけていたコメントも見られたけど、直接関係ないだろうに。何処の国の観光客だって割合の違いこそあれど、マナーが悪いのはいるのだし。

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2013/06/21

今はロックマン「シリーズ25周年バブル」なのか

http://news.mynavi.jp/news/2013/06/13/208/index.html

『スマブラ』ロックマン参戦PVが"かっこよすぎ"と話題に、BGMはもちろん…

 [2013/06/13]

6月11日配信の『ニンテンドーダイレクト』内で発表された任天堂の人気タイトル『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS』と『大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U』。本作には、毎回ゲストキャラクターの参戦が恒例となっており、今回はカプコンの人気キャラクター『ロックマン』が登場、さらには任天堂『どうぶつの森』から主人公のむらびと、「Wii Fit トレーナー」の新規参戦も決定している。

各参戦キャラクタームービーや画像もそれぞれ公開され、いずれも注目を集めているが、その中でも話題となっているのが『ロックマン』の参戦ムービー。「かっこよすぎ」「やばすぎ」「モエタwww」などネット民の称賛を受けている。

公開されたPVでは、マリオ、リンク、ドンキーコング、カービィといった任天堂キャラを前にして、ロックマンがおなじみのステージセレクト音とともに登場。ロックバスター、チャージショット、スライディング、ロックアッパーなどの豊富なアクションに加え、愛犬ラッシュや「ティウンティウン」などの擬音で知られるライフゼロ時の爆発も忠実に再現されている。しかも、ロックマン走りやジャンプ、ダメージ時を含めたその一つ一つの動きが、ファミコン時のモーション、挙動をベースにしており、ドッド絵を思わせる驚愕の仕上がり。制作スタッフの愛ある再現に「これだよ! これ!」「ドッド絵じゃないのに、なんという正確なトレース」と高い評価を受けている。

さらに圧巻なのは中盤以降で披露される、ロックマンの代名詞の一つ「武器チェンジ」。これまでロックマンがどのように武器チェンジを行うのか明確な描写は少なかったが、ロックバスターの変形機構、つまり戦闘時に拳が収納されて銃口が飛び出す――という過程が描かれている。フレイムブラスト使用時には、両腕がロックバスターとなり、内部構造が露出した状態で放射するなどギミックも豊富。PVでは、使用ボスのシルエットとともに、メタルブレード(メタルマン)→クラッシュボム(クラッシュマン)→リーフシールド(ウッドマン)→ハードナックル(ハードマン)→フレイムソード(ソードマン)→スラッシュクロー(スラッシュマン)→スパークショック(スパークマン)→スーパーアーム(ガッツマン)→フレイムブラスト(フレイムマン)の順に、ロックマンが次々と武器を披露していく。

そして『ロックマン』と言えば、やはり音楽。この点も抜かりなく、多少アレンジが施されているものの、『ロックマン2』のステージセレクト(STAGE SELECT)、タイトル(TITLE)、武器獲得画面(GET A WEAPON)のBGMから、中盤以降は「おっくせんまん」でも知られる名曲「Dr.WILY STAGE 1」が鳴り響く、というファン歓喜の流れ。各種SE(効果音)は、ロックバスター、チャージショット、着地音などはもちろん、クラッシュボムやリーフシールドといった各武器にまでファミコン当時の音源を使用するこだわりようで、ここでも『スマブラ』シリーズのディレクターを務める桜井政博氏のキャラクター愛が遺憾なく発揮されている。

【スマブラ3DS・WiiU】 ロックマン参戦!

なお、ムービーのラストでは『ロックマンシリーズ』を代表する"あのボスキャラ"も登場している。『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS』、『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS』は、ともに2014年の発売を予定。

(C)2013 Nintendo / HAL Laboratory, Inc.
Characters: (C)Nintendo / HAL Laboratory, Inc. / Pokémon. / Creatures Inc. / GAME FREAK inc. / CAPCOM CO., LTD

またこのようなニュースも話題に登りましたが・・・・・・・

http://news.mynavi.jp/news/2012/06/21/134/

ロックマン25周年! 1~10までの音源を網羅した『ロックカン サウンドE缶』発売決定

 [2012/06/21]

カプコンは、同社を代表するタイトル『ロックマン』の生誕25周年を記念して、『ロックマン1』~『ロックマン10』までの歴代音源を網羅したサウンドトラック・アルバム『ロックカン サウンドE缶』を、9月19日にイーカプコン限定で販売することを発表した。

収録音源は、すべて本商品のために準備されたもの全てにリマスタリングを施しており、それぞれのディスクに1タイトルの音源を収録したCD10枚組と大ボリュームのサントラボックスとなっている。さらにディスク1~6(『ロックマン』1~6)には、ファミコン版音源に加え、プレイステーション版の音源も収録。これまでにも『ロックマン』のサントラ音源は発売されてきたが、『ロックマン』1~10を網羅し、プレイステーション版音源もコンプリートしたものは本商品が初。ファン垂涎のアイテムとなる。

そして気になるパッケージは、『ロックマン』本編に登場するエネルギー回復アイテム「E缶」を模したオリジナルデザイン缶となっており、CD10枚がすっぽり収まるデザイン。冠の素材はスチールで、直径は約18.5cm、高さは17.5cm。オールカラーブックレットも同封され、価格は14,700円。イーカプコン限定、数量限定で発売される。予約受付はこちらから。

『ロックマン』は、1987年12月に当時ファミコン向けに発売されたアクションゲーム。1~6までがファミコン、その後はスーパーファミコン、ゲームボーイ、プレイステーションとさまざまなプラットフォームで展開され、『ロックマンX』、『ロックマンゼロ』、『ロックマンエグゼ』など派生作品も多岐にわたる。ナンバリングタイトルの『ロックマン9』(2008年作)および『ロックマン10』(2010年作)は、Wii、PS3、Xbox360で配信されたが、グラフィックやBGM、SE、操作など、ファミコンの新作という意識で制作され、大きな話題となった。海外での人気も高く、まさにカプコンを象徴する人気タイトルと言える。

各ディスクの収録タイトルは以下のとおり。

各ディスク収録タイトル

ディスク名 収録タイトル
ディスク1 ロックマン (FC版・PS版)
ディスク2 ロックマン2(FC版・PS版)
ディスク3 ロックマン3(FC版・PS版)
ディスク4 ロックマン4(FC版・PS版)
ディスク5 ロックマン5(FC版・PS版)
ディスク6 ロックマン6(FC版・PS版)
ディスク7 ロックマン7(SFC 版)
ディスク8 ロックマン8(PS 版)
ディスク9 ロックマン9(Xbox LIVE(R) アーケード版)
ディスク10 ロックマン10(Xbox LIVE(R) アーケード版)

(C)CAPCOM CO., LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

スマブラシリーズはプレイした事はないですが、自分もyou tubeで動画見ました。確かにカッコイイですよね。演出もこだわってますね。イエローデビルも「おおっ!!」でしたね。少なくともFCグラフィックで「自称」最高傑作「ロックマン2」の亜流(と言っても、「9」と「10」の2作しかないが。)を制作し続けるよりは建設的でしょう。

しかし、もう不特定多数の人達から反感買うのは承知の上で、もう4年以上もこの拙ブログで「ここが変だよ!!『ロックマン』シリーズ」な指摘をしてきたけど、結局そうやってリアルタイムでその「2」を中心としたFCシリーズをプレイしてきたファンに媚びているんですよね。その「2」だけが、必要以上にシリーズの中で大きく位置づけられているのも歪なんだよという事も何度も何度も言ってきたけど、このスマブラ3DSでもそうした「神聖視」も変わりなさそうですよね。

シリーズの歴史、本家に限定して大きく区切れば、1987年12月~1988年11月が黎明期、1988年12月~1994年までが全盛期、1995年~1998年までがSFC、PSへの進出、他にもフォルテやスーパーアドベンチャー等の挑戦期、1999年~2008年8月までが長い第一次低迷期、2008年9月~2010年2月までが「ロックマン9」を中心とした中興期、2010年3月~2012年11月までが第二次低迷期、そして2012年12月から現在までが、「見せかけの栄光」である記念バブル期。こうでしょう。「お前いい加減うざいよ。」とか思われるかもしれない。そう思われるのも分かる。

しかし、現在は閉鎖されてしまった某ゲームレビューサイトでも、その第一低迷期の最中に発売されたPS復刻版シリーズ(「1」~「6」)を「中身はそれほどでもないのに見かけを無理やり豪華に見せている。」、「ファンが『過去の懐かしさ』に浸るためだけのシリーズ」とか酷評されていた方がいましたが、いくらそうした25周年という節目の記念事業で盛り上がっていても、そうした「悪い本質」は変わっていないわけです。スマブラ以外にもドラゴンコインズとのコラボや、「X」等他シリーズキャラとの共演等全く皆無というわけでもないけど、そういう「自称」最高傑作「2」への「歪なる神聖視」等教条主義に固執していて「未来志向」というものが欠けているのです。これから先もずっと、リアルタイムで「2」等初期シリーズをプレイされた世代の方(1970年代後半~80年代前半頃生まれ)が高齢化してあの世からいなくなっても「『2』は神ゲーだった。FCグラも最高だった。」なんて過去の栄光にこだわって媚び続けたりするつもりなのですかね。

このような調子で、30周年を迎える2017年にはどうなっている事やらですが、「これからの『ロックマン』シリーズの方向性」とか、もういい加減も真剣に考えなければいけない時です。「エアーマンが倒せない」とか、「思い出は億千万」とか悪い意味で「歴史は繰り返す」なんて事になっては断じてならないのだから。

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2013/06/19

「ああまたやっちゃった~」な高市早苗原発舌禍事件

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000097-reut-bus_all

高市政調会長の発言撤回、職務に専念するよう伝えた=官房長官

ロイター 6月19日(水)17時4分配信   

6月19日、菅義偉官房長官は、自民党の高市早苗政調会長が原発再稼働に関連する自身の発言を撤回したことについて、高市政調会長には発言に注意し、職務に専念してほしいと伝えたことを明らかにした。写真は昨年12月、都内で撮影(2013年 ロイター/Toru Hanai)

[東京 19日 ロイター] - 菅義偉官房長官は19日午後の会見で、自民党の高市早苗政調会長が原発再稼働に関連する自身の発言を撤回したことについて、安倍晋三首相と話をした上で、高市政調会長には発言に注意し、職務に専念してほしいと伝えたことを明らかにした。

共同通信によると、高市政調会長は17日、神戸市での講演で、原発の再稼働問題について「福島第一原子力発電所の事故があったが、それによって死亡者が出ている状況ではない。最大限の安全性を確保しながら活用するしかない」と発言した。

これに対して、野党だけでなく与党関係者からも批判の声が出ていた。菅官房長官は18日、発言の前後をみると問題になるような発言ではなかった、と説明していた。

この日の会見で菅官房長官は「政治家は誤解を招くことがないよう、発言には注意しなければならない」と指摘。本人が発言を撤回し、陳謝したことに関連して「きょう何回か政調会長と話をした。首相に進退を任せるということも聞いた。すべての事実関係を含めて首相と私で話をし、今後発言に注意するように、政調会長としての職務は、これからも務めてほしいということを伝えた」と語った。

(石田仁志)

職場の食堂でもこのニュース、安愚楽牧場の件等共々報道されていましたが、まさに「ああやっちまったな~この人は。」でしたね。「死亡者が出ている状況じゃない」って、そういう問題じゃないでしょ。死人がいなければ原発利権もOKって事?被災者の人達の心情を全く無視した軽薄な暴言ですよね。東海由紀子等もそうですが、そういうデリケートな社会問題は軽々しく発言しちゃダメですよ。

まあこの人って、「噂の真相」でも自慰史観的な歴史認識について「歴史から学ぼうとしない姿勢は中曽根康弘等と同じだ。彼の養女になって中曽根早苗と名乗ればいい。」と佐高信にも批判されていて、彼の思想に100%同調するわけでもないけど、猪瀬直樹等同様あの頃から何にも変わってないんだなあと言うか。松下政経塾出身者ってホントロクなのいないよ・・・・・・・・・松下幸之助自身は彼なりに色々信念とかあったのでしょうが、教え子たちにはそんなの全然伝わってないよね。

まあこれももう何年も前から分かりきっていた事だけど、渡邉美樹の擁立といい、やっぱ自民党も国民の事を考えてないんですよね。民主は去年12月までの3年間全くダメな時点で説得力皆無だし、維新は案の定タカ派石原慎太郎とスタンドプレーヤーな橋下徹が仲違いしてきた。みんなの党もやっぱ自虐史観肯定派のようだし、社民はあれそんな政党あったっけ?な。他の野党もダメダメすぎるし、政調会長にとどまったままでも今度の参議院選挙は勝つのでしょうが・・・・・・・・・無所属で本当に国を良くしてくれそうな人を選ぶしかないですかね。まあ、山本太郎は票を入れられてもちょっと論外ですが。

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2013/06/16

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことまとめ

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/--ac60.html

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/--abea.html

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/--5a28.html

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/--85d8.html

興味をもたれたら、上記拙文過去ログも併せて読んでいただくと幸いですが、本当にこれで最後の最後と言うか、まとめます。

個人的に愛読していた「噂の真相」でも的を得た特集が掲載されていましたが、そもそも天皇制の本質の一つには男系主義・女性排除にあります。神道には3つの穢れがありますが、その内女性は産穢、血穢を持つ存在として排除されるべき存在なのです。宮中祭祀にも、特に即位の度に行われる大嘗祭と年の一度に行われる新嘗祭は采女を連れて八畳畳の寝座でこの儀式を執り行います。特に大嘗祭は聖婚儀式的な面もあるらしいですが、他にも女性が参加できない儀式はいくつもあります。2001年に愛子内親王が産まれた際にもあくまで直系先祖は男性皇族である女性天皇ではなく、女性のみが皇統に属する女系天皇待望論も出てきましたが、女性天皇でさえ、こうした本質を持つ天皇制下においてはあくまで例外的な存在なのですから、女系天皇はもう論外で、天皇は日本の象徴そのものなのですから、日本のアイデンティティを大きく揺るがす事になる矛盾だらけの愚かな待望論なのです。

女性天皇は過去に8人10代存在しました。多くは天皇家ではない、天皇家を影で操っていた時の権力者達(蘇我氏や藤原氏等)の意図が強く現れていました。推古天皇や皇極天皇の場合は蘇我氏でしたが、乙巳の変で本宗家は滅亡に追いやられ、その後も蘇我蝦夷の弟、倉麻呂系は一定の勢力は維持しましたが、石川麻呂と日向がまず脱落。赤兄と果安も壬申の乱で政治生命を断たれ、大海人皇子の命の恩人だったはずの、連子の息子(倉麻呂にとっては孫)、安麻呂も(おそらく)まもなく早世してしまいました。過去ログでも述べましたが、実は乙巳の変よりもこの壬申の乱&安麻呂早世というダブルパンチの方が蘇我氏にとって大きな痛手だったのです。

遺児だった石足は壬申の乱終結時点でもまだ5歳の少年でした。どんなに親が高官でも、早死してしまうと自身の昇進に基本的に不利になってしまいます。後の平安初期、たまたま娘婿の源定省が父・光孝天皇の意向を汲んだ藤原基経により皇族復帰・即位(宇多天皇)し、最終的には醍醐天皇の外祖父として内大臣まで昇進した藤原高藤のような例もありましたが、結局やはり過去ログ通り、石川朝臣を名乗るようになった蘇我氏は実質的に80年近く公卿不在の時期が続き、やがて平安遷都直後、桓武朝期には公卿(三位または参議以上)が途絶え、文徳朝ではとうとう貴族も出なくなる等平安初期には歴史の表舞台から姿を消す事になります。

壬申の乱後は大海人皇子(天武天皇)を直接の祖とする天武皇統が創設されましたが、女性天皇は8人10代の内、実に4人5代がこの天武皇統下の天皇でした。その内持統天皇と元明天皇は母親が石川麻呂の娘だったので蘇我氏の血も入ってはいました。

しかし、もはや蘇我氏が権力の中枢に返り咲く事はありませんでした。既に大海人が即位する前の、667年(天智天皇6年)における大田皇女の早世がその序章となっていましたが、天武皇統は木本好信氏が指摘されていた時よりももっと早く持統・草壁皇統に矮小化してしまっていたのです。この時代彼女ら4人も即位したのも、そんな持統・草壁皇統の脆弱さを物語っていたと言えます。

蘇我氏も、もし大津皇子が即位していたならば、赤兄の名誉回復もなされた可能性もありましたが、彼の外孫だった山辺皇女も讃良皇后(=持統天皇)にとっては目の上のタンコブだった夫に殉死しました。しかし、反発も大きかったので直ぐには即位させられず、数年して草壁も早世していまいました。讃良が遺された孫の軽皇子が14歳になるまで自ら後の持統天皇として即位してバトンタッチしました。文武天皇で、直前にはタイミング良く天武長男の高市皇子も持統より先になくなりましたが、彼も草壁よりもさらに若い24歳で早世し、今度は草壁の妻だった阿部皇女が、皇后にすらなっていなかったけど、藤原氏としては、不比等の娘・宮子との間に生まれた遺児の首を将来的に天皇にしたかったので自ら登板しました。元明天皇で、この間和同開珎や平城遷都等大掛かりな事業を指揮しましたが、文武の別の妻だった石川刀子娘が他の男と関係を持っていたのに怒り、自分と同じ蘇我氏の血を引いていた広成・広世両皇子も皇族の身分を剥奪してしまいました。結局息子が即位した歳である14歳まで首が成長するまでは何とか頑張りましたが、独身を余儀なくされてしまった娘の氷高に唯一の母→娘への皇位継承を行いました。元正天皇ですが、父の草壁は皇太子ではあった男系皇族だったので彼女も何とか男系女性天皇ではありました。

漸く首が23歳までなった時に後の聖武天皇として即位しましたが、その直後の生母・藤原宮子尊称問題で、藤原氏を特別扱いしようとした事に「待った!!」をかけたのが、このシリーズの主人公・長屋王でした。高市と天智天皇の娘で、元明天皇の姉だった御名部皇女の間に産まれた彼は、この時点でも父方・母方両祖父がそれぞれ天武・天智というサラブレッドだったのですが、さらに元明の次女で従兄妹でもあった吉備内親王とも結婚、元明天皇即位で天皇の義理の息子になったので親王待遇を受けていたのではとの説もありますが、朝廷で急速な昇進を遂げ、やはり義父でもあった不比等の死後、実質的に政府首班となっていました。

結局長屋の要求を呑みましたが、聖武にとってだけではなく、天武皇統ではなく、持統・草壁皇統を永遠に続けようとした藤原氏にとって余計面白くなかったのは言うまでもありません。結局長屋もこの持統・草壁皇統の永久的な維持の為に犠牲となってしまったのです。聖武と不比等のもう一人の娘だった安宿媛(光明皇后)との間に産まれた基皇子を呪い殺したとされて、絶対的な持統・草壁皇統を脅かそうとした朝敵として排除されてしまったのです。

しかし、この後はもう詳細は割愛しますが、そうして何人も女帝を立てて、潜在的な皇位継承のライバルを排除してまでしても、持統・草壁皇統は天武の崩御・大津皇子の粛清から数えてもたかだか80年そこそこしか持ちませんでした。既に744年(天平16年)の安積親王早世でとうとう草壁の男性直系子孫がいなくなってしまいましたが、流石に藤原氏が持統・草壁皇統の維持を諦めて、それに代わる新たな天武皇統を立てようとしても、結果的に大伯母の元正天皇同様独身を余儀なくされ、最後の持統・草壁皇統下の天皇となってしまった孝謙・称徳天皇に何度も阻まれてしまいました。藤原氏にとっては自分達の為に政治的に利用して強引に立太子・即位させた称徳という飼い犬に手を噛まれるハメとなってしまったのです。

だから称徳の崩御=天武皇統(実際は持統・草壁皇統)の断絶となりました。天武天皇の皇子達の中でも母親の身分が高かった(母方の祖父が天智天皇)舎人親王・長親王の息子または孫達もいなかったわけではなかったのですが、奥さんの身分が高くなかったり、文屋浄三・大市兄弟(天武の孫、つまり長屋の再従兄弟である)みたいに臣籍降下していて、しかも高齢だったりと有力と言える程の候補がすっかりいなくなってしまいました。塩焼王は聖武の皇女で称徳の異母妹だった不破内親王と結婚していましたが、彼自身が反乱を起こした藤原仲麻呂に担がれて敗死したのでとうとう白壁王という天武の直径子孫ではない、天智の三世王が後の光仁天皇として即位したのです。

前述した通り、日本の天皇制はあくまでその宗教的本質等から、男系子孫による皇位継承がなされなければいけないので、あくまで光仁天皇は新天智皇統の初代天皇でしたが、称徳の、今度は異母姉だった井上内親王、皮肉にも安積の死という草壁男系子孫の断絶で伊勢神宮の斎王の任を解かれてその白壁と結婚、しかも44歳という高齢出産で他戸親王を儲けたので、女系でありながらも持統・草壁の血もこれから受け継がれていくと思われました。しかし、自分達で擁立しておきながら、称徳のワガママに振り回された藤原氏はもう持統・草壁の血にはコリゴリでしたので、その血統はやはり過去ログで述べた通り、完全なるトドメを刺されたのです。

本来なら一傍流皇族として一生を終えるはずだった山部親王が後の桓武天皇として即位したのですが、桓武天皇は(おそらく)この持統・草壁皇統を反面教師として、万が一直系男性子孫がいなくなってもその兄弟が皇位継承できるようにしました。弟の早良親王は長岡遷都を指揮していた藤原種継の暗殺事件への関与を疑われて憤死、その後も薬子の変や承和の変が起こる等却って政争の種になってしまい、必ずしも成功したとは言い難かったですが、もう女帝の登場する出番は江戸時代初期まで800年以上ありませんでした。嵯峨天皇の直系子孫による皇位継承が確立される事になり、藤原氏も天皇に重用された藤原冬嗣出身の北家のみが大きく栄える事となりました。

嵯峨天皇はまた、自身も子沢山で男子だけで23人もいましたが、その内17人の皇子達が源氏二十一流の最初の一派となったのもその後の皇位継承の大きな伏線となりました。冬嗣の息子、藤原良房が清和天皇の外祖父になったかと思ったら、その次の陽成天皇から、やはり本来なら傍流老皇族として一生を終えるはずだった時康親王(光孝天皇)という大叔父さんへの不自然な皇位継承が行われましたが、さらにその後の臣籍降下していた源定省が息子の維城共々皇族復帰・即位(宇多天皇)となったのは前述した通りでしたが、これはまた、基経の妹、藤原淑子の猶子だった事以外にも、母親が嵯峨天皇の兄弟の一人だった仲野親王の娘、班子女王だったのも大きかったと思われます。しかし、こうした定省即位の経緯も、「もう一人の古代日本における『出る杭は打たれる』の代表例だった菅原道真の悲劇の大きな一因となったのですが、それはまた日を改めてという事で。

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2013/06/10

新テニスの王子様第100・101話-「僕はテニスをやめましぇん!!wwwwテニスが好きだから!!wwww」

スクエア買うの忘れていたけど、2ヶ月ぶりの新テニプリ感想です。

越前王子様wwwとリョーガwwww、野試合を楽しんでいたけど、王子様「平等院とかというオッサン」ってwwwwwww。いや確かに頼通wwwwのあの変貌ぶりはある意味悲惨だがwwwww。しかし、リョーガは「まだまだだぜ。」(兄弟関係なくムカつくねえ。このセリフ(#゚Д゚)y-~~)とあくまで余裕。「兄ちゃん兄ちゃん」って、マジで王子様にもそんな時期あったんだ!!wwwwwww。クールなはずなのに「いつの話だよっ!!」と怒った表情を見せたのがまた可愛い・・・・・・・ってなわけないか。コイツに限ってwwwwww。しかし、リョーガもちゃんとヒントは与えました。

そして第5試合も衝撃の組み合わせ!!晴信皇帝陛下(真田)&怪物DQNwwww(亜久津)VS國母和宏wwwww(大曲竜次)&鉄砲(種子島修二)ですが、確かにやばい組み合わせです。

特にこの怪物DQN、実はブランクあったらしいですが、その過去が明らかになります。パスポートを引き破るわ、自動販売機に蹴り入れるわまさにDQNそのものwwwww。しかも財布や携帯、タブレットが中にあったバックまで盗まれてしまったけど、おまわりさん、「盗ん・・・いやっ盗まれてしまったと・・・・・・・」って誤解しそうになったwwwwwwwのも分かるけど、彼は被害者ですからwwwwwwwwww。しかし、全然同情できないのはカエルを睨む蛇(青春学園にも蛇がいるがwwwwww)みたいに金貸しを要求する等ますますDQNな言動ばかりwwwww繰り返しているからwwwwww。と言うか、おまわりさんも「目上に対する口の利き方もロクにできないのか!!」ぐらい言ってやれよ・・・・・・・・・しかも「不信な少年が・・・・」って漢字間違えてますからーーーーーーwwwww!!!不信じゃなくて不審ですからーーーーーーwwwwww!!残念wwwww!!!(古いネタだが)

もやもやな焦燥感ばかりたまる一方のこのDQN亜久津、ついに今月のあの名言(あっ、迷言の間違いかwwwww)がキタァーーーーーーーーーーー!!!

「もう遅ぇーんだよっ!!」wwwwwwwwwwww。

出ました!!われらが許斐剛大先生の必殺技wwwwww「大ゴマ」wwwwwwがっ!!wwwwwwwしかし、そこにお洒落な服を着てお尻を向けながら缶コーヒーを買う、腐女子萌えwwwwwなセクシーな姿であるイケメン少年が登場!!彼こそが二宮清純、あっ、間違えた。秀久(千石清純)その人でした。彼が自分の飲んだレッドブルの空き缶をゴミ箱にラケットを打って入れさせる事でやっぱテニスを続ける事になったのですが、「今夜は月が綺麗だなぁ」って・・・・・・ベタすぎるよ。秀久wwwwwww。

いやあ、久々のテニプリで、自分も発売日チェックしないちゃったけど、本来シリアスな筈の話でもしっかり笑いをとったのは、流石は超絶ギャグバトルの伝道師、許斐剛大先生と言った所だったのでしょうwwwwwwww。

そう言えば、「青学VS氷帝」のミュージカルも公演されるらしいけど、関東地区は東京ドームシティホールで開催との事!!ファンはもう絶対見なきゃね!!えっ、お前はもうチケット買ったんだろって?行くわけねぇだろwwwww。まあ、それはともかく、7月号の表紙を飾った「終わりのセラフ」の鏡貴也&山本ヤマト両先生や大崎知仁&河下水希両先生にも負けるな!!許斐剛大先生にはまた、ネスカフェCM出演wwwwwという絶対叶えるべき夢wwwwがあるのだから!!YES!!YOU CANwwwww!!YES WE CANwwwww!!

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古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその④

実は親王待遇を受けていたのではとも言われている長屋王ですが、彼が退場させられた後の持統・草壁皇統の末路について最後述べます。

藤原不比等の後妻、(県犬飼)橘三千代のはとこの孫には県犬飼広刀自がいました。彼女もまた、聖武天皇の夫人となっており、安宿媛(不比等と三千代との間の女)との間に産まれた基とほぼ同時期に安積親王が生まれています。その基が夭折したのですから当然次期天皇は安積のはずでした。

しかし、飛鳥時代の押坂彦人大兄皇子も敏達天皇の立派な嫡男でありながら、蘇我氏の血は引いてなかった為に皇位(天皇号は天武天皇の時に初めて用いられたとする説が有力だから、王位と言った方が正確か)につけなかったように、5歳になった733年(天平5年)には親戚筋の三千代も亡くなった事もあってついに皇位にはつけませんでした。

既に長屋王を粛清した直後には、仁徳天皇の例を強引に持ち出してついに安宿媛を皇后としてしまった藤原氏、キレ者だった次弟・房前と比べてパッとしなかったと思われた不比等長男の武智麻呂が734年(天平6年)についに父生前の最高位でもあった右大臣に昇進しました。持統・草壁皇統は依然不安定でしたが、取り敢えず藤原氏は再び黄金時代を築くと思われました。

しかし、好事魔多しとも良く言ったもので、翌735年(天平7年)から発生した天然痘で武智麻呂ら藤原四兄弟や舎人親王等聖武朝の高官の多くが全滅してしまったのです。

残った主な閣僚は三千代が不比等の前に結婚していた美努王との間の子で、葛城王だったのが宿禰(後朝臣)の姓を賜った橘諸兄と長屋の弟だった鈴鹿王だけとなってしまいました。諸兄は大納言、右大臣と続けて昇進し、756年(天平勝宝8年)まで橘氏政権が続き、藤原氏の勢力は後退しましたが、諸兄の右大臣昇進と同時期に、安積が健在でありながら聖武天皇と安宿媛との間の皇女だった阿部内親王(曾祖母元明上皇の御名も阿部の他に阿ヘとも言う。「ヘ」の部分は変換できず。)が女性皇族初の皇太子となってしまいました。738年(天平10年)の事です。

押坂彦人大兄皇子の場合は既に存命時には孫(皇極・斉明天皇、孝徳天皇等)もいた等子孫に恵まれていて、経済的基盤もそれなり以上だったようですが、安積は子を儲ける事もないまま744年(天平16年)に16歳の若さで早世しました。聖武天皇は他に武智麻呂と房前のそれぞれ娘も婦人にしていましたが、彼女らとの間にはとうとう子供は生まれなかったので、草壁皇子が立太子してから63年後の事だったこの年についに草壁の男系子孫が断絶してしまったのです。

安積は伯母でもあった安宿媛とも良好な関係を持っていた、武智麻呂の次男・藤原仲麻呂に毒殺された説もあります。この仲麻呂が兄の豊成共々藤原氏を立て直し、諸兄のライバルとなっていくのですが、ついに749年(天平勝宝元年)に阿部が孝謙天皇として即位すると、仲麻呂はいきなり参議からの大納言昇進及び安宿媛の為に新たに設置された紫薇中台の長官となる等諸兄を大きく脅かす存在になります。

しかし、草壁の男系子孫が「そして一人もいなくなった」とあってはこの阿部の即位も場当たり的な措置に過ぎません。この間に長屋と長蛾子との間の子の一人だった黄文王を擁立する動きも見られましたが、新たな天武皇統を確立する必要がありました。

次期天皇の候補は母親がいずれも天智天皇こと中大兄皇子の娘だった舎人、長、弓削各親王の皇子達と思われましたが、弓削には子女は伝わらないのでまず除外されます。残るは舎人か長親王の皇子達で何人もいましたが、結局聖武上皇の崩御前の指名で新田部親王の皇子だった道祖王が皇太子となります。この道祖王も、祖母は仲麻呂にとっては曽祖父である鎌足の姉妹の五百重娘ですから藤原氏との繋がりが皆無だったわけではないのですが、直後に廃太子されてしまい、舎人の七男で父が死んだ時はまだ2歳だった大炊王が即位します。のちの淳仁天皇です。彼の夫人、粟田諸姉は仲麻呂の息子、真従の未亡人でしたから藤原氏の意向が強く現れていました。舎人親王も天皇の父となったという事で崇道尽敬皇帝という唐風の追贈がなされました。いかにも中国かぶれな仲麻呂らしい。

当然不満を持つ連中も表れ、聖武上皇を誹謗したとされて引退に追い込まれ、間もなく亡くなった諸兄の子、橘奈良麻呂が大伴古麻呂等共々再び黄文王を擁立する動きを見せます。この橘奈良麻呂の乱は事前に察知され、当事者達は道祖王も含めて粛清されましたが、舎人を直接の祖とする新天武皇統も不安定である事も露呈した事件でした。そして仲麻呂にとって誤算だったのは、この孝謙天皇も藤原氏の強い意向で曾祖母の元明天皇や大伯母の元正天皇以上に強引に即位しながらも、仲麻呂や彼と強く結びついていた母の安宿媛から独立する動きを見せ始めてしまった事です。不比等ですら生前にはならなかった大師(太政大臣)に昇進した直後の760年(天平宝寺4年)に光明皇太后こと安宿媛がなくなり、道鏡を重用するようになってから明らかに関係は微妙なものとなっていきましたが、天武皇統が直系男性皇族が一人もいなくなった草壁系から舎人系に移った筈なのに「国家の大事と賞罰は自分がやる!!あんたは祀りと小事だけやってればいい!!」と自身も独身で子供もいないにも関わらずあくまで自分こそが正当な天武皇統であるとも示すようになったのです。

とうとう仲麻呂も我慢できなくなって反乱を起こしてしまったのですが、この時擁立したのは淳仁天皇ではなく、塩焼王でした。彼は道祖王の兄弟でしたが、道祖王の廃太子には仲麻呂も関わっていたと思われるのに虫がいいと思うかもしれない。しかし、塩焼は聖武の正当な皇位継承者だった筈の安積の同母姉だった不破内親王と結婚していたのでそれなりの大義名分・正統性はあったのです。

結局反乱は鎮圧されて仲麻呂は処刑されてしまった。彼の施策はその後も受け継がれたものも少なくはなく、決して単なる権勢欲に溺れた政治家ではなかったのですが、長屋とはまた違った性質での「打たれる出た杭」となってしまったのです。必要以上に反感を買わない様務める等もしていた祖父の不比等の処世術ももっと学ぶべきでしたが、それが出来なかったのは彼の限界点だったのでしょう。

結局阿部は再即位して称徳天皇となったのですが、彼女だっていつかは寿命が尽きます。にも関わらず、廃帝となった大炊の不審死や和気王等有力皇族の粛清等かなり先細りしていたはずの持統・草壁皇統は、代わって他の天武皇統を確立しようとする動きを少しでも見せると反射的に牙を向いて排除する「リミッター」が装着されていました。塩焼の連座をまぬがれたと思われた不破も息子の氷上志計志麻呂共々連座をまぬがれたと思いきや、彼を擁立しようとしたとの言いがかりを付けられて皇族の身分を剥奪されてしまいました。仕舞いには道鏡を即位させようとした宇佐八幡宮信託事件が起こって、ここでも和気広虫・清麻呂姉弟が汚らわしい名前にも改名させられた上で粛清されてしまいました。この事件は色々な解釈があるようですが、まさに「断末魔の雄叫び」でした。

しかし、こんな事やっても何度も言いますが、その場その場しのぎにしかなりません。色々好き勝手やっていた称徳天皇でしたが、ついに寿命が尽きる時が来ました。770年(神護景雲4年)の事でしたが、藤原氏によって天智天皇の孫で、志貴親王の子だった白壁王という61歳の老皇族が擁立されます。光仁天皇です。この時右大臣にまで出世していた吉備真備が前述の長親王の皇子だったが、臣籍降下していた文屋浄三・大市兄弟を擁立していたとの説もあります。彼らも道祖や大炊、塩焼同様天武天皇の三世皇族なので嫡流には近い存在ではありましたが、それぞれ77歳・66歳と白壁以上の老人でした。浄三は間もなく亡くなりましたが、白壁が即位できたのは、聖武上皇のもう一人の皇女だった井上内親王と結婚していたのも大きかったと思われました。酒を飲む等暗愚を装ってもいたらしいですが、これにより天皇の義理の息子となったのです。子供も勿論儲けました。まだ9歳の少年でしたが、他戸親王と言いました。つまり、かなり先細りしてしまっていた持統・草壁皇統、元々持統上皇その人が天智天皇の皇女だったので実は天智の血も入ってはいたのですが、天智系を男系・天武系(=持統・草壁系)を女系として融合されるはずだったのです。

しかし、悲劇はまだ終わっていませんでした。白壁が即位して2年後の772年(宝亀3年)に天皇を呪ったとして井上と他戸はそれぞれ皇后・皇太子の位を剥奪されてしまったのです。後釜の皇太子には、本来皇位には無縁だったはずの、35歳の壮年の庶兄が新たに据えられました。のちの桓武天皇こと山部親王です。そして775年(宝亀6年)には2人は変死を遂げる事となります。まだしばらく平城京には都が置かれる事となり、山部の即位直後の782年(天応2年)には前述の志計志麻呂の弟だった川継が事前にクーデターを企てたとされて、妻の父で京家出身だった藤原浜成等共々粛清された氷上川継の乱も起こりましたが、本当にこの井上・他戸変死事件で持統・草壁皇統は完全に息の根を止められましたが、事実上奈良時代はほぼ終焉したと見ても良いでしょう。

そういう意味では、2010年には吉岡秀隆氏主演による「大仏開眼」が放送されましたが、吉備真備を主人公にしたのは正解だったと思います。彼は草壁のまさかの急死にもめげないで持統天皇が即位していた695年(持統天皇7年)に生まれ、白壁の即位直後に引退、この変死事件も起きた775年(宝亀6年)に80歳で亡くなったのですが、非藤原系であるにも関わらず「例外中の例外」な右大臣にまで出世したその生涯は、天武皇統から矮小的に変形されようとしていた持統・草壁皇統の確立からその完全なる断絶と見事に重なりあっていたからです。まあその割には、藤原仲麻呂の乱鎮圧で終わってしまったのは中途半端だったのも否めなかったのですが・・・・・・・・・

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2013/06/08

スリランカ人の日本に対する印象を悪くしてどうする

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130606-00000184-jij-bus_all

世界遺産舞台の発泡酒CM中止=スリランカで批判―アサヒ

時事通信 6月6日(木)21時0分配信   

 アサヒグループホールディングス(HD)は6日、スリランカの世界遺産「シーギリヤ」を舞台にした発泡酒「アサヒスタイルフリー」のCM放映を同日から中止したことを明らかにした。アルコールを飲んでいる場面に対し「スリランカで不快に思う人がいることを確認したため」(広報担当)と説明している。
 このCMは5月17日に放映を始めた。「シーギリヤ・ロック」と呼ばれる岩山の頂上で、男女が発泡酒と食事を楽しんでいるシーンが登場する。実際は、シーギリヤの空撮とスタジオ撮影を合成した映像。スリランカでは放映していないCMだが、同国で批判が出ているとの情報が5月末にアサヒグループHDに入ったという。 

しかもこれって、現地の人には「健康飲料水」と嘘言ったとか・・・・・・・日本人だって嫌でしょ?去年出張の関係で行く機会があったけど、厳島神社や姫路城の前でギャーギャー騒ぎながら飲酒とかのパーティーされるのって。あっ、新規登録が近い富士山でもゴミ問題とかで酷評されても平気な日本人には分からないか。そうですか。舌禍事件を起こした某東京都知事の件もそうですが、他国の文化や風習を理解するのも大事だと改めて認識させられたと言えたでしょう。まあ真摯に反省した態度を見せていると確信するまでは、アサヒグループの商品も一切買いません。自分は。

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2013/06/02

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその③

大夫人尊号事件ですが、経緯はなるべく簡潔に述べます。

即位した直後の首が生母藤原宮子に「大夫人」の尊号を与えるとの先勅を出しました。しかし、これに噛み付いたのが政権首班、今で言えば内閣総理大臣格だった長屋です。

長屋は「公式令には皇太夫人の尊号はあるが、大夫人は存在しない。これでは公式令と先勅が矛盾してしまうではないか。天皇はどう判断されるおつもりか?」と迫ったのです。そんなのどっちでもいいじゃんと思うかもしれないけど、長屋はあくまでなあなあで藤原氏を特別扱いする事は筋が通らないと彼なりの正義を貫き、若い天皇を牽制したのです。いくら日本の天皇は絶対的専制君主ではなかったとは言え、公式令にないのなら、新たに創設する事ぐらいは不可能ではなかったとも思われますが、結局公式令の方を尊重し、口頭の語では大御祖(おおみおや)とする事で首は妥協、先勅を撤回させた形となりました。この日付は旧暦では辛巳にあたる3月22日の事だったので辛巳事件とも言います。

しかし、前ログで繰り返し言うように結果的に長屋王を破滅に追い込む事となったのですが、正直自分が彼の末路に対して手放しで同情できない大きな理由がここにあります。

これも前述した通り、高市その人は母親の身分が低かったので、血統上は草壁・大津に劣りました。しかし、天智天皇こと中大兄皇子の皇女で、後に元明天皇の姉となった御名部と結婚したのでその格はかなり上昇しました。ですので産まれた時点で彼は既に父方・母方両祖父とも天皇だった曰くつきのサラブレッドでした。父とは12歳で死別して、どんなに親が高位高官でも早死すると出世に不利になるとも言いましたが、長屋もそれとは例外でした。順調に出世し、さらに元明天皇の皇女で従兄弟でもあった吉備内親王と結婚しました。これで天皇の義理の息子となりました。吉備には氷高という姉がいて、元正天皇として独身のまま強引に首即位の為に中継ぎ即位させられましたが、彼女の在位中についに政権の首班となりました。首がやがてやっとのちの聖武天皇として即位しましたが、藤原氏が生母である首よりも長屋の方が断然血統は高貴でした。要するに本来の嫡流に非常に近い存在だったのです。

不比等の娘で、宮子の妹だった長蛾子とも結婚しましたが、ここでまた強調しておきたいのは不比等が超一流の政治家たらしめた一番の要因は必要以上に自分が反感を買わないようにしようと留意し続けた等した優れたバランス感覚だと思います。長蛾子を長屋に嫁がせたのもそうでしたが、彼は文武天皇に自分の嫡流だけが藤原姓を名のれるようにさせた代わりに従兄弟の意美麻呂を中納言に推薦しました。710年(和銅3年)の平城遷都後、左大臣・物部麻呂を藤原京の留守役に押し付けました。これは麻呂が当時70歳の老人だった事を考えると、必ずしも冷遇人事策だったとは言えませんでしたが、まだ彼が存命だった715年(霊亀元年)には太政大臣相当だった知太政官事、穂積親王が薨去し、太政大臣に推挙されましたが、これを固辞し、あくまで麻呂の顔をある程度は立ててあげました。本当は早く天皇の外祖父になりたかったのでしょうが、焦って首を強引に即位させる事もしませんでした。その麻呂ら他の高官が相次いで間もなく亡くなった幸運もあって、本来は一氏族一人しか公卿を出せなかったのを房前を参議に昇進させる事にも成功しました。

孫の仲麻呂もそうでしたが、義理の息子でもあった長屋もこうした不比等のバランス感覚ももっと学ぶべきだったと思います。いくら自分の方が血統上では高貴だからといっても、それ故に彼は自らの意思に関わらず余計政敵から警戒されるべき存在となってしまっていたのです。頑なに自らの正義ばかりを突き通すのではなく、もっと柔軟に聖武天皇の顔も立ててあげるべきだったのです。「長屋王残照記」では基を失って半ば茫然自失になっていた首を見て彼の代わりに即位する事を求めた氷高(元正上皇)に対して、「自分の思い通りの政治をしていきたいと考えていましたが、それは人臣最高位である左大臣のままでもできるはずなのです。私は誰が天皇でも精一杯働くだけです。」というような事を言って固辞したシーンも描かれてましたが、時にはそうした柔軟な対応を取るのも長期的には「自分の思い通りの政治」を行う事に繋がったのではとも思います。

その後やっと光明子との間に産まれた男の子だったその、生後すぐに立太子させたまでは良かったですが、間もなく夭折しました。藤原四兄弟はますます光明子を皇后にしたがります。取り敢えずの処置として彼女を即位させる事も出来るからです。それには余計反対するのは目に見えている長屋王が邪魔です。既に大夫人尊号事件で神経を逆なでさせられています。そしてどんなに藤原四兄弟やその取り巻きが陰謀を企んでも、最終的な決定権はあくまで天皇にありますが、聖武天皇だって、「最初が肝心」とも良く言いますが、即位してすぐに先勅を撤回させられて面白いわけがありません。だから元々血統についてのコンプレックスもあったであろう長屋をロクにかばおうともせず、彼ら共々死に追いやる事になったのです。政治生命だけでなく、命そのものも奪われる事となったのです。確かにその最期は悲劇ではありましたが、長屋王の変は日本における「出る杭は打たれる」の代表的な事例の一つと言うか、政治の複雑怪奇さを改めて痛感させられた事件とも言えます。そんな彼を悲劇に追い込む原因の一つとなった脆弱な持統・草壁皇統の末路について最後述べたいのでまたここで一旦一区切り入れます。まあいつ更新できるかは分かりませんが・・・・・・・・

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古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその②

前ログでは前史として天智・弘文朝までの女帝即位にまつわる事情をダラダラのべましたが、そろそろ本筋に入ります。

壬申の乱に勝利、673年(天武天皇2年)2月に飛鳥岡本宮で後の天武天皇として即位した大海人でしたが、それまでに例を見ない強権的専制君主として数々の政策を実行していきました。それはここで一々詳しく述べる事ではないですが、兄・中大兄の娘だけで4人も結婚した大海人、当然子女の数も多いです。そうした子宝も武器に強固な、新たなる天武皇統を築く事となったかと思いきや、そうはならなかったのです。木本好信という人は後の聖武朝後期に天武皇統は持統・草壁皇統に矮小化していったと「歴史読本」2005年12月号で述べてましたが、実際は既に大海人存命時から始まっていました。

前触れはまだ即位すらもしていなかった667年(天智天皇6年)の、大田皇女の死でした。彼女との間の男子には大津皇子を儲けました。大海人の妃となった中大兄の娘は彼女の他に4人いましたが、即位後皇后となったのは同母妹だった讃良皇女でしたが、彼女との間も、産まれた男子は草壁皇子だけでした。他には大江皇女との間に長皇子、弓削皇子を、新田部皇女との間には舎人親王を男の子として儲けましたが、有力候補は中大兄も母方の祖父でもあった5人の子供達の中でも草壁と大津でした。しかし、大津(と姉の大来皇女)にはもう母親はいません。皇后・讃良が自分の腹を痛めて産んだ草壁をますます後継にしたくなったのは当然の心理です。かくして2つ目の矮小化を物語った事件が、十市皇女の急死からもまもなかった679年(天武天皇8年)に起こりました。草壁を次期皇位継承者として他の皇族にも誓わせた吉野の盟約です。大海人政権樹立の原点だったはずの吉野でです。

3つ目が681年(天武天皇10年)の草壁立太子でしたが、中大兄も一旦大海人を皇太弟としておきながら大友が可愛くなって太政大臣にする等同列以上にしてしまった様に、大海人もやっぱ器量優れた大津が可愛くなってしまったのです。結局さらに2年後の683年(天武天皇12年)に大津も草壁とほぼ対等の立場として政治に参加する事となりました。

「天上の虹」では、讃良が異母妹でもあったが、想いを寄せていた有間皇子を死に追いやった蘇我赤兄が外祖父だった山辺皇女が下手すれば皇后になってしまう事に強い拒絶反応を隠せなかった事(そうなれば、もしその時点で赤兄が存命だったならば許されて中央に復帰する可能性もあった。)も描かれていましたが、大海人のこうした優柔不断な態度が次の悲劇を引き起こします。686年(天武天皇15・朱鳥元年)の、天武天皇崩御直後の大津皇子の粛清でしたが、やはり反感も小さくはなかったようです。草壁を直ぐに即位させる事はしませんでした。それでも、後に大活躍する藤原不比等が688年に従五位相当の官位を得たあたり、「天上の虹」で描かれていたように大津の粛清に対するショックで半ば廃人となってしまっていたわけではなく、漸く草壁体制が築かれようとしていたのでしょう。

しかし、結局皇位につく事がないまま翌689年に急死してしまいます。この時点で残る長、弓削、舎人はみんなまだ10代の少年です。最年長の高市皇子は壬申の乱にも功績がありましたが、草壁・大津と同年代と思われる忍壁皇子等共々母親の身分が低い。鎌足の娘、五百重娘との間の男子だった新田部皇子もさらに幼くまだ10歳になるかならないかでした。この草壁の早世で早くも天武皇統(=持統・草壁皇統)はその脆弱さをさらけ出すことになってしまったのですが、ここで讃良皇女が後の持統天皇として即位したのです。

勿論死ぬまで在位するつもりはなく、まだ6歳の少年だった軽皇子が成長するまでの中継ぎのつもりでしたが、他の皇子たち、特に高市皇子は無視できない存在でした。繰り返し言う様に彼自身は母親の身分は低かったですが、中大兄の皇女で、草壁の妃でもあった阿部皇女の同母姉、御名部皇女と結婚したのでその格が上がりました。ここで漸く本記事の主人公、長屋王が再登場するのですが、誕生したのは684年(天武天皇13年)の事です。間もない翌685年(天武天皇14年)には既に彼の序列は草壁・大津に次ぐ序列3位の天武天皇皇子となっていました。だから持統朝においても彼は太政大臣として重きをなし、軽皇子が文武天皇として即位したのは高市皇子が薨去した直後の事です。しかし、文武天皇も707年(慶雲4年)に24歳の若さで崩御してしまいます。藤原不比等としては天皇に嫁がせた宮子との間に産まれた首皇子をなんとしてでも天皇にしたい。しかし、彼も祖父・草壁が急死した時の父親の軽同様まだ6歳の少年でした。だから今度は彼にとっては祖母にあたる阿部皇女が即位します。元明天皇ですが、彼女の即位も強引でした。夫の草壁が即位しないまま急死したから皇后にすらなっていなかったのです。この直後、軽の他の妻の一人だった石川刀子娘が他の某男と関係を持ったとの疑いを持たれ、彼女との間に設けた広成・広世両皇子も持統・草壁皇統下においては貴重な跡継ぎだったはずなのに皇族の身分を剥奪されています。

しかし、もっと可哀想だったのが首の伯母さんだった氷高皇女です。何とか孫の首が14歳になるまでは頑張った阿部でしたが、まだまだ頼りなく見えたのでしょう。ましてや息子嫁の宮子が首出産後うつ病(のような心身的な病気)を患ってしまい、公務を行う事が出来なくなってしまったのです。不比等としては早く首を即位させたかったでしょうが、彼は超一流の政治家です。冷静にまだ時期早々であると判断したのでしょう。しかし、だからと言って皇族の長老だった舎人や新田部を中継ぎとしても皇位につけさせたくはありません。

だから妹の吉備内親王を長屋と結婚させる事は何とか容認(一方で不比等も自分の娘で宮子の姉妹である長蛾子を嫁がせている。)出来ても、当然夫は長屋同様それ相応の身分の持ち主が相応しい氷高も独身を余儀なくされていたのでしょう。結局独身のまま元正天皇として即位する事となったのです。どんどん女帝の即位の経緯等が強引になってしまってますが、そこまでして漸く23歳になった724年(神亀元年)のひな祭りの日に首は即位しました。聖武天皇です。しかし、もう既に不比等はこの世の人ではなくなっていました。残された藤原四兄弟と未亡人となった橘三千代に与えられた使命は三千代が不比等ととの間に儲け、首に嫁がせた光明子を人臣初の皇后にする事です。(つまり光明子にとって宮子は姉であると同時に義理の母親でもあったという事。ますます複雑だよ~)

その為にはまず生母の宮子の権威を高めなければいけません。ましてや皇族連中、長屋は既に不比等存命時にいきなり非参議から大納言へのスピード出世を遂げていましたが、不比等の死でいきなり朝廷の首班、長屋王政権が誕生しました。間もなく不比等の死で空いた右大臣に出世しています。長老格の舎人と新田部もまだ健在です。四兄弟にとっては継母である三千代の実子である葛城王、彼も敏達天皇の5世孫皇族でしたが、首の即位直前に従四位下まで順調に出世しています。事は急を要したのでしょう。ここで結果的に長屋を破滅に追い込む事になった大夫人尊号事件が起こるのです。ですが、また長くなったのでここで一旦切ります。

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古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその①

来年2014年は奈良時代前期に朝廷の首班として皇親政治を推進した長屋王の生誕1330周年にあたります。長屋王といえば、明治まで朝廷を牛耳ることとなった藤原氏の陰謀に倒れた悲劇の宰相というイメージが強いでしょう。「その時歴史は動いた」にも出演されていた里中満智子女史も、ライフワーク「天上の虹」の続編としての「長屋王残照記」で彼を主人公として描かれていました。しかし、いかんせん美化されていた面もあったのではと言うか、自分はその最期には手放しでは同情しかねます。

この長屋王の変の背景にあったのは、皇親勢力VS不比等という巨人を失っていた藤原氏の対立だけでなく、当時の皇統の脆弱さも大きいものでした。

日本の女帝は飛鳥時代~奈良時代に殆ど集中していますが、これは時の実質的な権力者の政治的意図が強く反映されています。推古天皇は蘇我稲目の娘で馬子の姉だった堅塩媛(馬子は扶桑略記によれば551年(欽明天皇13年)頃生まれだったらしいが、推古天皇は554年(欽明天皇16年)生まれで、厩戸皇子(聖徳太子のモデル)の父親の用明天皇は、他にも諸説あるが547年(欽明天皇9年)頃生まれだから、堅塩媛の生年はおそらく530年(継体天皇24年)前後生まれと馬子とはかなり年の離れたお姉さんだったと思われる。)が母親でしたが、異母兄だった敏達天皇と結婚させられ、その間に竹田皇子を儲けました。彼女が即位したのはあくまでこの竹田皇子か、やはり父方・母方両方の祖母が蘇我氏だった厩戸皇子(生母だった穴穂部間人皇女の母の蘇我小姉君も馬子の姉)が即位するまでの中継ぎだったと言われているみたいですが、敏達天皇には押坂彦人大兄皇子という嫡子がいました。この人は既に7世紀末前後にはそれぞれ後の皇極・斉明天皇、孝徳天皇だった宝姫王、軽皇子という孫がいましたから560年(欽明天皇22年)前後の生まれと思われ、崇峻天皇が暗殺されたときは既に30歳を過ぎていた壮年の男性皇族、しかも母親の広姫は皇族の娘で血縁的にも問題なかったのですが、蘇我氏の血は引いてなかった為に皇位にはつけませんでした。

7世紀初頭までは生きていたらしく、享年は40代半ばと推定されますが、崇峻天皇暗殺時とほぼ同時期に儲けた彼の嫡男の田村王(つまり彼にとって、後に結婚した宝姫王は庶兄の娘、姪にもあたったのです。古代の血縁関係はとかく複雑です。)は馬子の娘・法堤郎女を夫人に迎えました。また父親が祖父の敏達天皇、母親が推古天皇、つまり伯母でもあった田眼皇女も妃に迎えました。敏達天皇は585年(敏達天皇14年)に崩御し、田村は593年(推古天皇元年)頃生まれですので、少なくとも8歳以上年上の姉さん女房です。

法堤との間に生まれたのが古人大兄皇子でしたが、彼の娘だった倭姫は伯父(母親が宝姫王で古人の異母弟)でもあった中大兄皇子と結婚して、中大兄は626年(推古天皇34年)生まれですからこの田村&法堤の結婚・古人の出産は612年(推古天皇20年)前後と推定できます。舒明天皇こと田村王が崩御した後は当然この古人が皇位とつくと思われましたが、即位したのは皇極天皇こと宝姫王でした。日本書紀には明記されてないらしいですが、父親は厩戸皇子、母親も馬子の娘・刀自古郎女とやはり蘇我氏の血を濃く引いていた山背大兄皇子と中大兄皇子というライバルの存在、そして田村王を擁立した際、山背を推した伯父の境部摩理勢を粛清した強引さもあって直ぐには即位させられなかったと思われます。

しかし、実は舒明天皇の皇后は前に迎えていた田眼皇女その人で、宝姫王が皇后だったのは捏造に過ぎないとの説もあるようですが、いずれにせよ、皮肉にも両親共に皇位経験者となった中大兄の格を余計上げてしまう結果となってしまいました。蘇我宗本家三代目だった蘇我蝦夷の人となりはハッキリわかりませんが、稲目や馬子と比べると頼りないお坊ちゃんだったのは否めなかったのでしょう。山背に対しては最終的に粛清には成功しましたが、結局「もう一人の強力なライバル」だった中大兄と中臣鎌足らによる乙巳の変というクーデターで息子の入鹿共々死に追いやられ、蘇我宗本家は滅亡の憂き目を見ます。退位した皇極天皇の後に即位する事を拒否して吉野に逃げ込んだ古人もまもなく粛清されました。

しかし、中大兄自身も直ぐには皇位に付けませんでした。孝徳天皇である伯父の軽皇子の崩御後は宝姫王が今度は斉明天皇として再登板しました。その理由は、系譜上では同父弟だった大海人皇子が実は宝姫王が前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物で、生年も推定される631年(舒明天皇3年)ではなく、中大兄より4歳年上の622年(推古天皇30年)生まれの異父兄として無視できない存在だった事、同母妹だった間人皇女と近親相姦関係にあった事が理由として挙げられますが、大海人の出生については同一資料で中大兄より年上である事を記した資料はないし、あくまで中大兄か大海人いずれかの父親が舒明天皇ではなかった可能性もあると見るにとどめるべきでしょう。二度目の治世下においてはやたら公共事業に血道をあげていた事に対する民の不満の声が聞かれますが、奸臣蘇我蝦夷・入鹿親子を退治した正義のヒーロー、中大兄がそのように民を苦しめたと直接日本書記で描く事など出来るわけがありません。「天上の虹」でも面と向かって皮肉っていましたが、体の良い隠れ蓑にされたのでしょう。そしてクライマックスは朝鮮半島における軍事介入で、自身も筑紫・朝倉宮に遷幸しましたが、既に60代後半の身体には堪えたのでしょう。間もなく661年(斉明天皇7年)に御年67歳で崩御しました。政治に半ば翻弄された一生でした。

この後も、そうした軍事介入が続いていた事もあったのでしょうが、なおも称制を執って即位しませんでした。しかも当時絶頂期だった唐も相手に戦った白村江の戦いで大敗及び近江宮への遷都もあって漸く668年(天智天皇7年)に即位しました。この間間人皇女が665年(天智天皇4年)に崩御するまで即位していたのではの説もありますが、諸説あってハッキリしません。

乙巳の変時では19歳の青年皇子だった中大兄も既に42歳の壮年となっていましたが、ここでまた問題が起こりました。そう。跡継ぎの問題です。後の天智天皇でもあった中大兄は妃は何人もいました。額田王も本当は大海人と結婚していたのが、無理やり自分のものにしてしまった説もありますが、皇后だった倭姫との間には子供がおらず、大友、川島、それに産まれたばかりだったと思われる志貴はいずれも母親の身分が高くなく、入鹿の従兄弟だった蘇我石川麻呂の娘だった遠智娘との間に儲けた建皇子は既に夭折していました。4人も娘を嫁がせていた大海人を皇太子にし、その中でも年長だった大友皇子を大海人の年長の娘だった十市皇女と結婚させる等配慮していましたが、やはり息子が可愛くなったのか、大友を古代中国の嫡子継承例に習って自分の後を継がせたくなったのです。しかし、もう中大兄に残された時間はありませんでした。671年(天智天皇10年)秋に死の床についてしまい、おそらく本意ではなく返答しだいで抹殺するつもりだったのでしょうが、大海人を呼んで後の皇位を継ぐよう命じます。しかし、石川麻呂の弟で間人とほぼ同時期に故人となっていた蘇我連子の息子、安麻呂の忠告を聞いていた大海人は譲位を断り、「取り敢えず倭姫を即位させ、大友は摂政として補佐させるべき。」と進言して吉野に逃げるように去りました。しかし、この倭姫も間人や大友同様本当に即位していたかは分かりません。いずれにせよ、直後古代最大の内乱、壬申の乱が起こり、大海人が勝者となりました。当然近江側の重臣も何人も処罰される事になりました。その中でも物部麻呂は忠節を大海人に評価され、最終的には左大臣まで出世しましたが、「天上の虹」でもかなり悪く描かれていた蘇我赤兄等は失脚します。

乙巳の変はあくまでも蝦夷流宗本家の滅亡を意味しましたが、蝦夷には善徳という兄の他に倉麻呂という弟がいました。彼は前述の推古天皇崩御後の皇位継承問題時には中立を保ったとの記録が日本書紀に残っているので、少なくとも628年(推古天皇36年)頃までは生きていました。子供も石川麻呂や連子、赤兄の他に日向、果安と恵まれましたが、兄の石川麻呂を讒言して死に追いやった日向は654年(白雉5年)の般若寺創設以降の事績も子孫も伝わらず、果安は赤兄共々失脚、連子は既に故人でしたが、蘇我氏にとってさらに運が悪かったのは、結果的に大海人の命の恩人となった安麻呂も(おそらく)間もなく亡くなってしまった事でした。

後の平安時代に活躍した藤原時平や藤原伊尹・義孝親子もそれぞれ嫡流が弟の忠平・兼家に最終的に移ってしまいましたが、どんなに親が高官でも早死してしまうと青年期以降の出世に不利になってしまうのです。三蹟の一人として有名な藤原行成は義孝の息子でしたが、2歳の時に父と死別した事もあって、どんなに頑張っても正二位・権大納言でした。しかも、あの道長と同じ日に死んでしまった為に余計影が薄くなってしまった。時平にとっては親父の従兄弟だった藤原高藤のような例外もありましたが、彼の場合はたまたま娘の婿だった、賜姓源氏だった源定省が宇多天皇として皇族に復帰し、その後の醍醐天皇の外祖父にもなったから運良く内大臣まで出世できただけの事です。まだ蘇我氏は乙巳の変後も一定の勢力は保持していましたが、壬申の乱と安麻呂早世がダブルパンチとなってしまった。石川朝臣を名乗ることとなった遺児の石川石足は伯母の娼子が不比等と結婚した事で藤原氏と血縁関係を持つ事になりましたが、初叙したのは漸く41歳になった708年(和銅元年)の事。その風下でありながらも従兄弟でもあった武智麻呂・房前・宇合と長屋王の変でも連携して、彼の失脚に関わり、従三位・権参議まで昇りましたが、間もなく死去、息子の年足が、もう人生の良い晩年である61歳となってしまった749年(天平勝宝元年)に参議となるまでに実に実質77年の長きに渡り、蘇我氏(石川氏)は公卿不在の時期が続いてしまったのです。衰退と中興を繰り返していた蘇我氏でしたが、やはり漸く65歳で参議となった孫の真守(ただ、息子の名足とは2歳しか年が違わず、実際は名足の弟と思われる。)が3年後の798年(延暦17年)に死去して以降ついに石川氏から公卿は出なくなり、歴史の表舞台から完全に退場する事となったのです。前史についてダラダラと長く語ってしまいましたが、続きは次ログにて。

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みんなの党も民主と「似た匂い」がするのか

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/yomiuri-20130602-00195/1.htm

国家公務員を5万人削減、みんな参院選公約

 

 

2013年6月2日(日)8時54分配信 読売新聞

 

 

 

 

 

 みんなの党の参院選公約の原案が明らかになった。

 行財政改革のため5万人の国家公務員を削減するとしつつ、消費税増税には反対を続ける考えを打ち出した。憲法改正の発議要件を定めた96条見直しも盛り込む方向だ。4日の党役員会で決定する。

 原案では、公務員に労働基本権を付与するとした。公務員の身分保障は撤廃し、降格やリストラを可能にする。「国家公務員の数を5万人削減し、給与、退職金、年金を民間水準に引き下げ、総人件費は2割削減する」とも明記した。

 消費税率引き上げ関連法は廃止し、「財政の健全化は、埋蔵金の活用および経済成長を通じた税収の拡大を通じて行う」とした。国会議員は衆院で180人、参院で142人削減する 

まあ本当に実現すれば良いかもしれないけど、「人気取り」でしょう。

http://www.hoshusokuhou.com/archives/27799412.html

みんなの党と言えば、浅尾慶一郎という政調会長が自虐史観丸出しの要求を維新にのたまったようだけど、あなたはどこの国の政治家なんだ?このサイトの書き込みでもやっぱりと言うか見られた「日本はアジア諸国の解放に貢献した。」とかの自慰史観もおかしいけど、事実認識よりも謝罪が先なんて全然順番が違うし、日本人は特亜のご機嫌取りをする為に存在しているわけじゃないんです。中国に対しては周恩来は「日本人民も中国人民と同じ戦争の被害者。」だとハッキリ言っていたし、韓国に対しても1965年の日韓基本条約で北朝鮮の分までちゃんと補償しています。とっくに済んだ事です。某政府高官がまた頓珍漢な事を言っていたようですが、もう国交断絶でいいよ。この国とは。

この人も元々政策等移民の積極的な受け入れ策等売国的なようですが、これで今度の参議院選挙でみんなの党に入れる事もほぼなくなりましたね。でも、他に何処か入れられる党あるのだろうか・・・・・もう共産党というある意味究極の選択肢しかないのか・・・・・・・

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