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2013/06/02

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその①

来年2014年は奈良時代前期に朝廷の首班として皇親政治を推進した長屋王の生誕1330周年にあたります。長屋王といえば、明治まで朝廷を牛耳ることとなった藤原氏の陰謀に倒れた悲劇の宰相というイメージが強いでしょう。「その時歴史は動いた」にも出演されていた里中満智子女史も、ライフワーク「天上の虹」の続編としての「長屋王残照記」で彼を主人公として描かれていました。しかし、いかんせん美化されていた面もあったのではと言うか、自分はその最期には手放しでは同情しかねます。

この長屋王の変の背景にあったのは、皇親勢力VS不比等という巨人を失っていた藤原氏の対立だけでなく、当時の皇統の脆弱さも大きいものでした。

日本の女帝は飛鳥時代~奈良時代に殆ど集中していますが、これは時の実質的な権力者の政治的意図が強く反映されています。推古天皇は蘇我稲目の娘で馬子の姉だった堅塩媛(馬子は扶桑略記によれば551年(欽明天皇13年)頃生まれだったらしいが、推古天皇は554年(欽明天皇16年)生まれで、厩戸皇子(聖徳太子のモデル)の父親の用明天皇は、他にも諸説あるが547年(欽明天皇9年)頃生まれだから、堅塩媛の生年はおそらく530年(継体天皇24年)前後生まれと馬子とはかなり年の離れたお姉さんだったと思われる。)が母親でしたが、異母兄だった敏達天皇と結婚させられ、その間に竹田皇子を儲けました。彼女が即位したのはあくまでこの竹田皇子か、やはり父方・母方両方の祖母が蘇我氏だった厩戸皇子(生母だった穴穂部間人皇女の母の蘇我小姉君も馬子の姉)が即位するまでの中継ぎだったと言われているみたいですが、敏達天皇には押坂彦人大兄皇子という嫡子がいました。この人は既に7世紀末前後にはそれぞれ後の皇極・斉明天皇、孝徳天皇だった宝姫王、軽皇子という孫がいましたから560年(欽明天皇22年)前後の生まれと思われ、崇峻天皇が暗殺されたときは既に30歳を過ぎていた壮年の男性皇族、しかも母親の広姫は皇族の娘で血縁的にも問題なかったのですが、蘇我氏の血は引いてなかった為に皇位にはつけませんでした。

7世紀初頭までは生きていたらしく、享年は40代半ばと推定されますが、崇峻天皇暗殺時とほぼ同時期に儲けた彼の嫡男の田村王(つまり彼にとって、後に結婚した宝姫王は庶兄の娘、姪にもあたったのです。古代の血縁関係はとかく複雑です。)は馬子の娘・法堤郎女を夫人に迎えました。また父親が祖父の敏達天皇、母親が推古天皇、つまり伯母でもあった田眼皇女も妃に迎えました。敏達天皇は585年(敏達天皇14年)に崩御し、田村は593年(推古天皇元年)頃生まれですので、少なくとも8歳以上年上の姉さん女房です。

法堤との間に生まれたのが古人大兄皇子でしたが、彼の娘だった倭姫は伯父(母親が宝姫王で古人の異母弟)でもあった中大兄皇子と結婚して、中大兄は626年(推古天皇34年)生まれですからこの田村&法堤の結婚・古人の出産は612年(推古天皇20年)前後と推定できます。舒明天皇こと田村王が崩御した後は当然この古人が皇位とつくと思われましたが、即位したのは皇極天皇こと宝姫王でした。日本書紀には明記されてないらしいですが、父親は厩戸皇子、母親も馬子の娘・刀自古郎女とやはり蘇我氏の血を濃く引いていた山背大兄皇子と中大兄皇子というライバルの存在、そして田村王を擁立した際、山背を推した伯父の境部摩理勢を粛清した強引さもあって直ぐには即位させられなかったと思われます。

しかし、実は舒明天皇の皇后は前に迎えていた田眼皇女その人で、宝姫王が皇后だったのは捏造に過ぎないとの説もあるようですが、いずれにせよ、皮肉にも両親共に皇位経験者となった中大兄の格を余計上げてしまう結果となってしまいました。蘇我宗本家三代目だった蘇我蝦夷の人となりはハッキリわかりませんが、稲目や馬子と比べると頼りないお坊ちゃんだったのは否めなかったのでしょう。山背に対しては最終的に粛清には成功しましたが、結局「もう一人の強力なライバル」だった中大兄と中臣鎌足らによる乙巳の変というクーデターで息子の入鹿共々死に追いやられ、蘇我宗本家は滅亡の憂き目を見ます。退位した皇極天皇の後に即位する事を拒否して吉野に逃げ込んだ古人もまもなく粛清されました。

しかし、中大兄自身も直ぐには皇位に付けませんでした。孝徳天皇である伯父の軽皇子の崩御後は宝姫王が今度は斉明天皇として再登板しました。その理由は、系譜上では同父弟だった大海人皇子が実は宝姫王が前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物で、生年も推定される631年(舒明天皇3年)ではなく、中大兄より4歳年上の622年(推古天皇30年)生まれの異父兄として無視できない存在だった事、同母妹だった間人皇女と近親相姦関係にあった事が理由として挙げられますが、大海人の出生については同一資料で中大兄より年上である事を記した資料はないし、あくまで中大兄か大海人いずれかの父親が舒明天皇ではなかった可能性もあると見るにとどめるべきでしょう。二度目の治世下においてはやたら公共事業に血道をあげていた事に対する民の不満の声が聞かれますが、奸臣蘇我蝦夷・入鹿親子を退治した正義のヒーロー、中大兄がそのように民を苦しめたと直接日本書記で描く事など出来るわけがありません。「天上の虹」でも面と向かって皮肉っていましたが、体の良い隠れ蓑にされたのでしょう。そしてクライマックスは朝鮮半島における軍事介入で、自身も筑紫・朝倉宮に遷幸しましたが、既に60代後半の身体には堪えたのでしょう。間もなく661年(斉明天皇7年)に御年67歳で崩御しました。政治に半ば翻弄された一生でした。

この後も、そうした軍事介入が続いていた事もあったのでしょうが、なおも称制を執って即位しませんでした。しかも当時絶頂期だった唐も相手に戦った白村江の戦いで大敗及び近江宮への遷都もあって漸く668年(天智天皇7年)に即位しました。この間間人皇女が665年(天智天皇4年)に崩御するまで即位していたのではの説もありますが、諸説あってハッキリしません。

乙巳の変時では19歳の青年皇子だった中大兄も既に42歳の壮年となっていましたが、ここでまた問題が起こりました。そう。跡継ぎの問題です。後の天智天皇でもあった中大兄は妃は何人もいました。額田王も本当は大海人と結婚していたのが、無理やり自分のものにしてしまった説もありますが、皇后だった倭姫との間には子供がおらず、大友、川島、それに産まれたばかりだったと思われる志貴はいずれも母親の身分が高くなく、入鹿の従兄弟だった蘇我石川麻呂の娘だった遠智娘との間に儲けた建皇子は既に夭折していました。4人も娘を嫁がせていた大海人を皇太子にし、その中でも年長だった大友皇子を大海人の年長の娘だった十市皇女と結婚させる等配慮していましたが、やはり息子が可愛くなったのか、大友を古代中国の嫡子継承例に習って自分の後を継がせたくなったのです。しかし、もう中大兄に残された時間はありませんでした。671年(天智天皇10年)秋に死の床についてしまい、おそらく本意ではなく返答しだいで抹殺するつもりだったのでしょうが、大海人を呼んで後の皇位を継ぐよう命じます。しかし、石川麻呂の弟で間人とほぼ同時期に故人となっていた蘇我連子の息子、安麻呂の忠告を聞いていた大海人は譲位を断り、「取り敢えず倭姫を即位させ、大友は摂政として補佐させるべき。」と進言して吉野に逃げるように去りました。しかし、この倭姫も間人や大友同様本当に即位していたかは分かりません。いずれにせよ、直後古代最大の内乱、壬申の乱が起こり、大海人が勝者となりました。当然近江側の重臣も何人も処罰される事になりました。その中でも物部麻呂は忠節を大海人に評価され、最終的には左大臣まで出世しましたが、「天上の虹」でもかなり悪く描かれていた蘇我赤兄等は失脚します。

乙巳の変はあくまでも蝦夷流宗本家の滅亡を意味しましたが、蝦夷には善徳という兄の他に倉麻呂という弟がいました。彼は前述の推古天皇崩御後の皇位継承問題時には中立を保ったとの記録が日本書紀に残っているので、少なくとも628年(推古天皇36年)頃までは生きていました。子供も石川麻呂や連子、赤兄の他に日向、果安と恵まれましたが、兄の石川麻呂を讒言して死に追いやった日向は654年(白雉5年)の般若寺創設以降の事績も子孫も伝わらず、果安は赤兄共々失脚、連子は既に故人でしたが、蘇我氏にとってさらに運が悪かったのは、結果的に大海人の命の恩人となった安麻呂も(おそらく)間もなく亡くなってしまった事でした。

後の平安時代に活躍した藤原時平や藤原伊尹・義孝親子もそれぞれ嫡流が弟の忠平・兼家に最終的に移ってしまいましたが、どんなに親が高官でも早死してしまうと青年期以降の出世に不利になってしまうのです。三蹟の一人として有名な藤原行成は義孝の息子でしたが、2歳の時に父と死別した事もあって、どんなに頑張っても正二位・権大納言でした。しかも、あの道長と同じ日に死んでしまった為に余計影が薄くなってしまった。時平にとっては親父の従兄弟だった藤原高藤のような例外もありましたが、彼の場合はたまたま娘の婿だった、賜姓源氏だった源定省が宇多天皇として皇族に復帰し、その後の醍醐天皇の外祖父にもなったから運良く内大臣まで出世できただけの事です。まだ蘇我氏は乙巳の変後も一定の勢力は保持していましたが、壬申の乱と安麻呂早世がダブルパンチとなってしまった。石川朝臣を名乗ることとなった遺児の石川石足は伯母の娼子が不比等と結婚した事で藤原氏と血縁関係を持つ事になりましたが、初叙したのは漸く41歳になった708年(和銅元年)の事。その風下でありながらも従兄弟でもあった武智麻呂・房前・宇合と長屋王の変でも連携して、彼の失脚に関わり、従三位・権参議まで昇りましたが、間もなく死去、息子の年足が、もう人生の良い晩年である61歳となってしまった749年(天平勝宝元年)に参議となるまでに実に実質77年の長きに渡り、蘇我氏(石川氏)は公卿不在の時期が続いてしまったのです。衰退と中興を繰り返していた蘇我氏でしたが、やはり漸く65歳で参議となった孫の真守(ただ、息子の名足とは2歳しか年が違わず、実際は名足の弟と思われる。)が3年後の798年(延暦17年)に死去して以降ついに石川氏から公卿は出なくなり、歴史の表舞台から完全に退場する事となったのです。前史についてダラダラと長く語ってしまいましたが、続きは次ログにて。

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