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2013/06/02

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその②

前ログでは前史として天智・弘文朝までの女帝即位にまつわる事情をダラダラのべましたが、そろそろ本筋に入ります。

壬申の乱に勝利、673年(天武天皇2年)2月に飛鳥岡本宮で後の天武天皇として即位した大海人でしたが、それまでに例を見ない強権的専制君主として数々の政策を実行していきました。それはここで一々詳しく述べる事ではないですが、兄・中大兄の娘だけで4人も結婚した大海人、当然子女の数も多いです。そうした子宝も武器に強固な、新たなる天武皇統を築く事となったかと思いきや、そうはならなかったのです。木本好信という人は後の聖武朝後期に天武皇統は持統・草壁皇統に矮小化していったと「歴史読本」2005年12月号で述べてましたが、実際は既に大海人存命時から始まっていました。

前触れはまだ即位すらもしていなかった667年(天智天皇6年)の、大田皇女の死でした。彼女との間の男子には大津皇子を儲けました。大海人の妃となった中大兄の娘は彼女の他に4人いましたが、即位後皇后となったのは同母妹だった讃良皇女でしたが、彼女との間も、産まれた男子は草壁皇子だけでした。他には大江皇女との間に長皇子、弓削皇子を、新田部皇女との間には舎人親王を男の子として儲けましたが、有力候補は中大兄も母方の祖父でもあった5人の子供達の中でも草壁と大津でした。しかし、大津(と姉の大来皇女)にはもう母親はいません。皇后・讃良が自分の腹を痛めて産んだ草壁をますます後継にしたくなったのは当然の心理です。かくして2つ目の矮小化を物語った事件が、十市皇女の急死からもまもなかった679年(天武天皇8年)に起こりました。草壁を次期皇位継承者として他の皇族にも誓わせた吉野の盟約です。大海人政権樹立の原点だったはずの吉野でです。

3つ目が681年(天武天皇10年)の草壁立太子でしたが、中大兄も一旦大海人を皇太弟としておきながら大友が可愛くなって太政大臣にする等同列以上にしてしまった様に、大海人もやっぱ器量優れた大津が可愛くなってしまったのです。結局さらに2年後の683年(天武天皇12年)に大津も草壁とほぼ対等の立場として政治に参加する事となりました。

「天上の虹」では、讃良が異母妹でもあったが、想いを寄せていた有間皇子を死に追いやった蘇我赤兄が外祖父だった山辺皇女が下手すれば皇后になってしまう事に強い拒絶反応を隠せなかった事(そうなれば、もしその時点で赤兄が存命だったならば許されて中央に復帰する可能性もあった。)も描かれていましたが、大海人のこうした優柔不断な態度が次の悲劇を引き起こします。686年(天武天皇15・朱鳥元年)の、天武天皇崩御直後の大津皇子の粛清でしたが、やはり反感も小さくはなかったようです。草壁を直ぐに即位させる事はしませんでした。それでも、後に大活躍する藤原不比等が688年に従五位相当の官位を得たあたり、「天上の虹」で描かれていたように大津の粛清に対するショックで半ば廃人となってしまっていたわけではなく、漸く草壁体制が築かれようとしていたのでしょう。

しかし、結局皇位につく事がないまま翌689年に急死してしまいます。この時点で残る長、弓削、舎人はみんなまだ10代の少年です。最年長の高市皇子は壬申の乱にも功績がありましたが、草壁・大津と同年代と思われる忍壁皇子等共々母親の身分が低い。鎌足の娘、五百重娘との間の男子だった新田部皇子もさらに幼くまだ10歳になるかならないかでした。この草壁の早世で早くも天武皇統(=持統・草壁皇統)はその脆弱さをさらけ出すことになってしまったのですが、ここで讃良皇女が後の持統天皇として即位したのです。

勿論死ぬまで在位するつもりはなく、まだ6歳の少年だった軽皇子が成長するまでの中継ぎのつもりでしたが、他の皇子たち、特に高市皇子は無視できない存在でした。繰り返し言う様に彼自身は母親の身分は低かったですが、中大兄の皇女で、草壁の妃でもあった阿部皇女の同母姉、御名部皇女と結婚したのでその格が上がりました。ここで漸く本記事の主人公、長屋王が再登場するのですが、誕生したのは684年(天武天皇13年)の事です。間もない翌685年(天武天皇14年)には既に彼の序列は草壁・大津に次ぐ序列3位の天武天皇皇子となっていました。だから持統朝においても彼は太政大臣として重きをなし、軽皇子が文武天皇として即位したのは高市皇子が薨去した直後の事です。しかし、文武天皇も707年(慶雲4年)に24歳の若さで崩御してしまいます。藤原不比等としては天皇に嫁がせた宮子との間に産まれた首皇子をなんとしてでも天皇にしたい。しかし、彼も祖父・草壁が急死した時の父親の軽同様まだ6歳の少年でした。だから今度は彼にとっては祖母にあたる阿部皇女が即位します。元明天皇ですが、彼女の即位も強引でした。夫の草壁が即位しないまま急死したから皇后にすらなっていなかったのです。この直後、軽の他の妻の一人だった石川刀子娘が他の某男と関係を持ったとの疑いを持たれ、彼女との間に設けた広成・広世両皇子も持統・草壁皇統下においては貴重な跡継ぎだったはずなのに皇族の身分を剥奪されています。

しかし、もっと可哀想だったのが首の伯母さんだった氷高皇女です。何とか孫の首が14歳になるまでは頑張った阿部でしたが、まだまだ頼りなく見えたのでしょう。ましてや息子嫁の宮子が首出産後うつ病(のような心身的な病気)を患ってしまい、公務を行う事が出来なくなってしまったのです。不比等としては早く首を即位させたかったでしょうが、彼は超一流の政治家です。冷静にまだ時期早々であると判断したのでしょう。しかし、だからと言って皇族の長老だった舎人や新田部を中継ぎとしても皇位につけさせたくはありません。

だから妹の吉備内親王を長屋と結婚させる事は何とか容認(一方で不比等も自分の娘で宮子の姉妹である長蛾子を嫁がせている。)出来ても、当然夫は長屋同様それ相応の身分の持ち主が相応しい氷高も独身を余儀なくされていたのでしょう。結局独身のまま元正天皇として即位する事となったのです。どんどん女帝の即位の経緯等が強引になってしまってますが、そこまでして漸く23歳になった724年(神亀元年)のひな祭りの日に首は即位しました。聖武天皇です。しかし、もう既に不比等はこの世の人ではなくなっていました。残された藤原四兄弟と未亡人となった橘三千代に与えられた使命は三千代が不比等ととの間に儲け、首に嫁がせた光明子を人臣初の皇后にする事です。(つまり光明子にとって宮子は姉であると同時に義理の母親でもあったという事。ますます複雑だよ~)

その為にはまず生母の宮子の権威を高めなければいけません。ましてや皇族連中、長屋は既に不比等存命時にいきなり非参議から大納言へのスピード出世を遂げていましたが、不比等の死でいきなり朝廷の首班、長屋王政権が誕生しました。間もなく不比等の死で空いた右大臣に出世しています。長老格の舎人と新田部もまだ健在です。四兄弟にとっては継母である三千代の実子である葛城王、彼も敏達天皇の5世孫皇族でしたが、首の即位直前に従四位下まで順調に出世しています。事は急を要したのでしょう。ここで結果的に長屋を破滅に追い込む事になった大夫人尊号事件が起こるのです。ですが、また長くなったのでここで一旦切ります。

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