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2013/06/10

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその④

実は親王待遇を受けていたのではとも言われている長屋王ですが、彼が退場させられた後の持統・草壁皇統の末路について最後述べます。

藤原不比等の後妻、(県犬飼)橘三千代のはとこの孫には県犬飼広刀自がいました。彼女もまた、聖武天皇の夫人となっており、安宿媛(不比等と三千代との間の女)との間に産まれた基とほぼ同時期に安積親王が生まれています。その基が夭折したのですから当然次期天皇は安積のはずでした。

しかし、飛鳥時代の押坂彦人大兄皇子も敏達天皇の立派な嫡男でありながら、蘇我氏の血は引いてなかった為に皇位(天皇号は天武天皇の時に初めて用いられたとする説が有力だから、王位と言った方が正確か)につけなかったように、5歳になった733年(天平5年)には親戚筋の三千代も亡くなった事もあってついに皇位にはつけませんでした。

既に長屋王を粛清した直後には、仁徳天皇の例を強引に持ち出してついに安宿媛を皇后としてしまった藤原氏、キレ者だった次弟・房前と比べてパッとしなかったと思われた不比等長男の武智麻呂が734年(天平6年)についに父生前の最高位でもあった右大臣に昇進しました。持統・草壁皇統は依然不安定でしたが、取り敢えず藤原氏は再び黄金時代を築くと思われました。

しかし、好事魔多しとも良く言ったもので、翌735年(天平7年)から発生した天然痘で武智麻呂ら藤原四兄弟や舎人親王等聖武朝の高官の多くが全滅してしまったのです。

残った主な閣僚は三千代が不比等の前に結婚していた美努王との間の子で、葛城王だったのが宿禰(後朝臣)の姓を賜った橘諸兄と長屋の弟だった鈴鹿王だけとなってしまいました。諸兄は大納言、右大臣と続けて昇進し、756年(天平勝宝8年)まで橘氏政権が続き、藤原氏の勢力は後退しましたが、諸兄の右大臣昇進と同時期に、安積が健在でありながら聖武天皇と安宿媛との間の皇女だった阿部内親王(曾祖母元明上皇の御名も阿部の他に阿ヘとも言う。「ヘ」の部分は変換できず。)が女性皇族初の皇太子となってしまいました。738年(天平10年)の事です。

押坂彦人大兄皇子の場合は既に存命時には孫(皇極・斉明天皇、孝徳天皇等)もいた等子孫に恵まれていて、経済的基盤もそれなり以上だったようですが、安積は子を儲ける事もないまま744年(天平16年)に16歳の若さで早世しました。聖武天皇は他に武智麻呂と房前のそれぞれ娘も婦人にしていましたが、彼女らとの間にはとうとう子供は生まれなかったので、草壁皇子が立太子してから63年後の事だったこの年についに草壁の男系子孫が断絶してしまったのです。

安積は伯母でもあった安宿媛とも良好な関係を持っていた、武智麻呂の次男・藤原仲麻呂に毒殺された説もあります。この仲麻呂が兄の豊成共々藤原氏を立て直し、諸兄のライバルとなっていくのですが、ついに749年(天平勝宝元年)に阿部が孝謙天皇として即位すると、仲麻呂はいきなり参議からの大納言昇進及び安宿媛の為に新たに設置された紫薇中台の長官となる等諸兄を大きく脅かす存在になります。

しかし、草壁の男系子孫が「そして一人もいなくなった」とあってはこの阿部の即位も場当たり的な措置に過ぎません。この間に長屋と長蛾子との間の子の一人だった黄文王を擁立する動きも見られましたが、新たな天武皇統を確立する必要がありました。

次期天皇の候補は母親がいずれも天智天皇こと中大兄皇子の娘だった舎人、長、弓削各親王の皇子達と思われましたが、弓削には子女は伝わらないのでまず除外されます。残るは舎人か長親王の皇子達で何人もいましたが、結局聖武上皇の崩御前の指名で新田部親王の皇子だった道祖王が皇太子となります。この道祖王も、祖母は仲麻呂にとっては曽祖父である鎌足の姉妹の五百重娘ですから藤原氏との繋がりが皆無だったわけではないのですが、直後に廃太子されてしまい、舎人の七男で父が死んだ時はまだ2歳だった大炊王が即位します。のちの淳仁天皇です。彼の夫人、粟田諸姉は仲麻呂の息子、真従の未亡人でしたから藤原氏の意向が強く現れていました。舎人親王も天皇の父となったという事で崇道尽敬皇帝という唐風の追贈がなされました。いかにも中国かぶれな仲麻呂らしい。

当然不満を持つ連中も表れ、聖武上皇を誹謗したとされて引退に追い込まれ、間もなく亡くなった諸兄の子、橘奈良麻呂が大伴古麻呂等共々再び黄文王を擁立する動きを見せます。この橘奈良麻呂の乱は事前に察知され、当事者達は道祖王も含めて粛清されましたが、舎人を直接の祖とする新天武皇統も不安定である事も露呈した事件でした。そして仲麻呂にとって誤算だったのは、この孝謙天皇も藤原氏の強い意向で曾祖母の元明天皇や大伯母の元正天皇以上に強引に即位しながらも、仲麻呂や彼と強く結びついていた母の安宿媛から独立する動きを見せ始めてしまった事です。不比等ですら生前にはならなかった大師(太政大臣)に昇進した直後の760年(天平宝寺4年)に光明皇太后こと安宿媛がなくなり、道鏡を重用するようになってから明らかに関係は微妙なものとなっていきましたが、天武皇統が直系男性皇族が一人もいなくなった草壁系から舎人系に移った筈なのに「国家の大事と賞罰は自分がやる!!あんたは祀りと小事だけやってればいい!!」と自身も独身で子供もいないにも関わらずあくまで自分こそが正当な天武皇統であるとも示すようになったのです。

とうとう仲麻呂も我慢できなくなって反乱を起こしてしまったのですが、この時擁立したのは淳仁天皇ではなく、塩焼王でした。彼は道祖王の兄弟でしたが、道祖王の廃太子には仲麻呂も関わっていたと思われるのに虫がいいと思うかもしれない。しかし、塩焼は聖武の正当な皇位継承者だった筈の安積の同母姉だった不破内親王と結婚していたのでそれなりの大義名分・正統性はあったのです。

結局反乱は鎮圧されて仲麻呂は処刑されてしまった。彼の施策はその後も受け継がれたものも少なくはなく、決して単なる権勢欲に溺れた政治家ではなかったのですが、長屋とはまた違った性質での「打たれる出た杭」となってしまったのです。必要以上に反感を買わない様務める等もしていた祖父の不比等の処世術ももっと学ぶべきでしたが、それが出来なかったのは彼の限界点だったのでしょう。

結局阿部は再即位して称徳天皇となったのですが、彼女だっていつかは寿命が尽きます。にも関わらず、廃帝となった大炊の不審死や和気王等有力皇族の粛清等かなり先細りしていたはずの持統・草壁皇統は、代わって他の天武皇統を確立しようとする動きを少しでも見せると反射的に牙を向いて排除する「リミッター」が装着されていました。塩焼の連座をまぬがれたと思われた不破も息子の氷上志計志麻呂共々連座をまぬがれたと思いきや、彼を擁立しようとしたとの言いがかりを付けられて皇族の身分を剥奪されてしまいました。仕舞いには道鏡を即位させようとした宇佐八幡宮信託事件が起こって、ここでも和気広虫・清麻呂姉弟が汚らわしい名前にも改名させられた上で粛清されてしまいました。この事件は色々な解釈があるようですが、まさに「断末魔の雄叫び」でした。

しかし、こんな事やっても何度も言いますが、その場その場しのぎにしかなりません。色々好き勝手やっていた称徳天皇でしたが、ついに寿命が尽きる時が来ました。770年(神護景雲4年)の事でしたが、藤原氏によって天智天皇の孫で、志貴親王の子だった白壁王という61歳の老皇族が擁立されます。光仁天皇です。この時右大臣にまで出世していた吉備真備が前述の長親王の皇子だったが、臣籍降下していた文屋浄三・大市兄弟を擁立していたとの説もあります。彼らも道祖や大炊、塩焼同様天武天皇の三世皇族なので嫡流には近い存在ではありましたが、それぞれ77歳・66歳と白壁以上の老人でした。浄三は間もなく亡くなりましたが、白壁が即位できたのは、聖武上皇のもう一人の皇女だった井上内親王と結婚していたのも大きかったと思われました。酒を飲む等暗愚を装ってもいたらしいですが、これにより天皇の義理の息子となったのです。子供も勿論儲けました。まだ9歳の少年でしたが、他戸親王と言いました。つまり、かなり先細りしてしまっていた持統・草壁皇統、元々持統上皇その人が天智天皇の皇女だったので実は天智の血も入ってはいたのですが、天智系を男系・天武系(=持統・草壁系)を女系として融合されるはずだったのです。

しかし、悲劇はまだ終わっていませんでした。白壁が即位して2年後の772年(宝亀3年)に天皇を呪ったとして井上と他戸はそれぞれ皇后・皇太子の位を剥奪されてしまったのです。後釜の皇太子には、本来皇位には無縁だったはずの、35歳の壮年の庶兄が新たに据えられました。のちの桓武天皇こと山部親王です。そして775年(宝亀6年)には2人は変死を遂げる事となります。まだしばらく平城京には都が置かれる事となり、山部の即位直後の782年(天応2年)には前述の志計志麻呂の弟だった川継が事前にクーデターを企てたとされて、妻の父で京家出身だった藤原浜成等共々粛清された氷上川継の乱も起こりましたが、本当にこの井上・他戸変死事件で持統・草壁皇統は完全に息の根を止められましたが、事実上奈良時代はほぼ終焉したと見ても良いでしょう。

そういう意味では、2010年には吉岡秀隆氏主演による「大仏開眼」が放送されましたが、吉備真備を主人公にしたのは正解だったと思います。彼は草壁のまさかの急死にもめげないで持統天皇が即位していた695年(持統天皇7年)に生まれ、白壁の即位直後に引退、この変死事件も起きた775年(宝亀6年)に80歳で亡くなったのですが、非藤原系であるにも関わらず「例外中の例外」な右大臣にまで出世したその生涯は、天武皇統から矮小的に変形されようとしていた持統・草壁皇統の確立からその完全なる断絶と見事に重なりあっていたからです。まあその割には、藤原仲麻呂の乱鎮圧で終わってしまったのは中途半端だったのも否めなかったのですが・・・・・・・・・

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