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2013/06/02

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことその③

大夫人尊号事件ですが、経緯はなるべく簡潔に述べます。

即位した直後の首が生母藤原宮子に「大夫人」の尊号を与えるとの先勅を出しました。しかし、これに噛み付いたのが政権首班、今で言えば内閣総理大臣格だった長屋です。

長屋は「公式令には皇太夫人の尊号はあるが、大夫人は存在しない。これでは公式令と先勅が矛盾してしまうではないか。天皇はどう判断されるおつもりか?」と迫ったのです。そんなのどっちでもいいじゃんと思うかもしれないけど、長屋はあくまでなあなあで藤原氏を特別扱いする事は筋が通らないと彼なりの正義を貫き、若い天皇を牽制したのです。いくら日本の天皇は絶対的専制君主ではなかったとは言え、公式令にないのなら、新たに創設する事ぐらいは不可能ではなかったとも思われますが、結局公式令の方を尊重し、口頭の語では大御祖(おおみおや)とする事で首は妥協、先勅を撤回させた形となりました。この日付は旧暦では辛巳にあたる3月22日の事だったので辛巳事件とも言います。

しかし、前ログで繰り返し言うように結果的に長屋王を破滅に追い込む事となったのですが、正直自分が彼の末路に対して手放しで同情できない大きな理由がここにあります。

これも前述した通り、高市その人は母親の身分が低かったので、血統上は草壁・大津に劣りました。しかし、天智天皇こと中大兄皇子の皇女で、後に元明天皇の姉となった御名部と結婚したのでその格はかなり上昇しました。ですので産まれた時点で彼は既に父方・母方両祖父とも天皇だった曰くつきのサラブレッドでした。父とは12歳で死別して、どんなに親が高位高官でも早死すると出世に不利になるとも言いましたが、長屋もそれとは例外でした。順調に出世し、さらに元明天皇の皇女で従兄弟でもあった吉備内親王と結婚しました。これで天皇の義理の息子となりました。吉備には氷高という姉がいて、元正天皇として独身のまま強引に首即位の為に中継ぎ即位させられましたが、彼女の在位中についに政権の首班となりました。首がやがてやっとのちの聖武天皇として即位しましたが、藤原氏が生母である首よりも長屋の方が断然血統は高貴でした。要するに本来の嫡流に非常に近い存在だったのです。

不比等の娘で、宮子の妹だった長蛾子とも結婚しましたが、ここでまた強調しておきたいのは不比等が超一流の政治家たらしめた一番の要因は必要以上に自分が反感を買わないようにしようと留意し続けた等した優れたバランス感覚だと思います。長蛾子を長屋に嫁がせたのもそうでしたが、彼は文武天皇に自分の嫡流だけが藤原姓を名のれるようにさせた代わりに従兄弟の意美麻呂を中納言に推薦しました。710年(和銅3年)の平城遷都後、左大臣・物部麻呂を藤原京の留守役に押し付けました。これは麻呂が当時70歳の老人だった事を考えると、必ずしも冷遇人事策だったとは言えませんでしたが、まだ彼が存命だった715年(霊亀元年)には太政大臣相当だった知太政官事、穂積親王が薨去し、太政大臣に推挙されましたが、これを固辞し、あくまで麻呂の顔をある程度は立ててあげました。本当は早く天皇の外祖父になりたかったのでしょうが、焦って首を強引に即位させる事もしませんでした。その麻呂ら他の高官が相次いで間もなく亡くなった幸運もあって、本来は一氏族一人しか公卿を出せなかったのを房前を参議に昇進させる事にも成功しました。

孫の仲麻呂もそうでしたが、義理の息子でもあった長屋もこうした不比等のバランス感覚ももっと学ぶべきだったと思います。いくら自分の方が血統上では高貴だからといっても、それ故に彼は自らの意思に関わらず余計政敵から警戒されるべき存在となってしまっていたのです。頑なに自らの正義ばかりを突き通すのではなく、もっと柔軟に聖武天皇の顔も立ててあげるべきだったのです。「長屋王残照記」では基を失って半ば茫然自失になっていた首を見て彼の代わりに即位する事を求めた氷高(元正上皇)に対して、「自分の思い通りの政治をしていきたいと考えていましたが、それは人臣最高位である左大臣のままでもできるはずなのです。私は誰が天皇でも精一杯働くだけです。」というような事を言って固辞したシーンも描かれてましたが、時にはそうした柔軟な対応を取るのも長期的には「自分の思い通りの政治」を行う事に繋がったのではとも思います。

その後やっと光明子との間に産まれた男の子だったその、生後すぐに立太子させたまでは良かったですが、間もなく夭折しました。藤原四兄弟はますます光明子を皇后にしたがります。取り敢えずの処置として彼女を即位させる事も出来るからです。それには余計反対するのは目に見えている長屋王が邪魔です。既に大夫人尊号事件で神経を逆なでさせられています。そしてどんなに藤原四兄弟やその取り巻きが陰謀を企んでも、最終的な決定権はあくまで天皇にありますが、聖武天皇だって、「最初が肝心」とも良く言いますが、即位してすぐに先勅を撤回させられて面白いわけがありません。だから元々血統についてのコンプレックスもあったであろう長屋をロクにかばおうともせず、彼ら共々死に追いやる事になったのです。政治生命だけでなく、命そのものも奪われる事となったのです。確かにその最期は悲劇ではありましたが、長屋王の変は日本における「出る杭は打たれる」の代表的な事例の一つと言うか、政治の複雑怪奇さを改めて痛感させられた事件とも言えます。そんな彼を悲劇に追い込む原因の一つとなった脆弱な持統・草壁皇統の末路について最後述べたいのでまたここで一旦一区切り入れます。まあいつ更新できるかは分かりませんが・・・・・・・・

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