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2013/06/16

古代日本における「出る杭は打たれる」の事例-長屋王のことまとめ

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興味をもたれたら、上記拙文過去ログも併せて読んでいただくと幸いですが、本当にこれで最後の最後と言うか、まとめます。

個人的に愛読していた「噂の真相」でも的を得た特集が掲載されていましたが、そもそも天皇制の本質の一つには男系主義・女性排除にあります。神道には3つの穢れがありますが、その内女性は産穢、血穢を持つ存在として排除されるべき存在なのです。宮中祭祀にも、特に即位の度に行われる大嘗祭と年の一度に行われる新嘗祭は采女を連れて八畳畳の寝座でこの儀式を執り行います。特に大嘗祭は聖婚儀式的な面もあるらしいですが、他にも女性が参加できない儀式はいくつもあります。2001年に愛子内親王が産まれた際にもあくまで直系先祖は男性皇族である女性天皇ではなく、女性のみが皇統に属する女系天皇待望論も出てきましたが、女性天皇でさえ、こうした本質を持つ天皇制下においてはあくまで例外的な存在なのですから、女系天皇はもう論外で、天皇は日本の象徴そのものなのですから、日本のアイデンティティを大きく揺るがす事になる矛盾だらけの愚かな待望論なのです。

女性天皇は過去に8人10代存在しました。多くは天皇家ではない、天皇家を影で操っていた時の権力者達(蘇我氏や藤原氏等)の意図が強く現れていました。推古天皇や皇極天皇の場合は蘇我氏でしたが、乙巳の変で本宗家は滅亡に追いやられ、その後も蘇我蝦夷の弟、倉麻呂系は一定の勢力は維持しましたが、石川麻呂と日向がまず脱落。赤兄と果安も壬申の乱で政治生命を断たれ、大海人皇子の命の恩人だったはずの、連子の息子(倉麻呂にとっては孫)、安麻呂も(おそらく)まもなく早世してしまいました。過去ログでも述べましたが、実は乙巳の変よりもこの壬申の乱&安麻呂早世というダブルパンチの方が蘇我氏にとって大きな痛手だったのです。

遺児だった石足は壬申の乱終結時点でもまだ5歳の少年でした。どんなに親が高官でも、早死してしまうと自身の昇進に基本的に不利になってしまいます。後の平安初期、たまたま娘婿の源定省が父・光孝天皇の意向を汲んだ藤原基経により皇族復帰・即位(宇多天皇)し、最終的には醍醐天皇の外祖父として内大臣まで昇進した藤原高藤のような例もありましたが、結局やはり過去ログ通り、石川朝臣を名乗るようになった蘇我氏は実質的に80年近く公卿不在の時期が続き、やがて平安遷都直後、桓武朝期には公卿(三位または参議以上)が途絶え、文徳朝ではとうとう貴族も出なくなる等平安初期には歴史の表舞台から姿を消す事になります。

壬申の乱後は大海人皇子(天武天皇)を直接の祖とする天武皇統が創設されましたが、女性天皇は8人10代の内、実に4人5代がこの天武皇統下の天皇でした。その内持統天皇と元明天皇は母親が石川麻呂の娘だったので蘇我氏の血も入ってはいました。

しかし、もはや蘇我氏が権力の中枢に返り咲く事はありませんでした。既に大海人が即位する前の、667年(天智天皇6年)における大田皇女の早世がその序章となっていましたが、天武皇統は木本好信氏が指摘されていた時よりももっと早く持統・草壁皇統に矮小化してしまっていたのです。この時代彼女ら4人も即位したのも、そんな持統・草壁皇統の脆弱さを物語っていたと言えます。

蘇我氏も、もし大津皇子が即位していたならば、赤兄の名誉回復もなされた可能性もありましたが、彼の外孫だった山辺皇女も讃良皇后(=持統天皇)にとっては目の上のタンコブだった夫に殉死しました。しかし、反発も大きかったので直ぐには即位させられず、数年して草壁も早世していまいました。讃良が遺された孫の軽皇子が14歳になるまで自ら後の持統天皇として即位してバトンタッチしました。文武天皇で、直前にはタイミング良く天武長男の高市皇子も持統より先になくなりましたが、彼も草壁よりもさらに若い24歳で早世し、今度は草壁の妻だった阿部皇女が、皇后にすらなっていなかったけど、藤原氏としては、不比等の娘・宮子との間に生まれた遺児の首を将来的に天皇にしたかったので自ら登板しました。元明天皇で、この間和同開珎や平城遷都等大掛かりな事業を指揮しましたが、文武の別の妻だった石川刀子娘が他の男と関係を持っていたのに怒り、自分と同じ蘇我氏の血を引いていた広成・広世両皇子も皇族の身分を剥奪してしまいました。結局息子が即位した歳である14歳まで首が成長するまでは何とか頑張りましたが、独身を余儀なくされてしまった娘の氷高に唯一の母→娘への皇位継承を行いました。元正天皇ですが、父の草壁は皇太子ではあった男系皇族だったので彼女も何とか男系女性天皇ではありました。

漸く首が23歳までなった時に後の聖武天皇として即位しましたが、その直後の生母・藤原宮子尊称問題で、藤原氏を特別扱いしようとした事に「待った!!」をかけたのが、このシリーズの主人公・長屋王でした。高市と天智天皇の娘で、元明天皇の姉だった御名部皇女の間に産まれた彼は、この時点でも父方・母方両祖父がそれぞれ天武・天智というサラブレッドだったのですが、さらに元明の次女で従兄妹でもあった吉備内親王とも結婚、元明天皇即位で天皇の義理の息子になったので親王待遇を受けていたのではとの説もありますが、朝廷で急速な昇進を遂げ、やはり義父でもあった不比等の死後、実質的に政府首班となっていました。

結局長屋の要求を呑みましたが、聖武にとってだけではなく、天武皇統ではなく、持統・草壁皇統を永遠に続けようとした藤原氏にとって余計面白くなかったのは言うまでもありません。結局長屋もこの持統・草壁皇統の永久的な維持の為に犠牲となってしまったのです。聖武と不比等のもう一人の娘だった安宿媛(光明皇后)との間に産まれた基皇子を呪い殺したとされて、絶対的な持統・草壁皇統を脅かそうとした朝敵として排除されてしまったのです。

しかし、この後はもう詳細は割愛しますが、そうして何人も女帝を立てて、潜在的な皇位継承のライバルを排除してまでしても、持統・草壁皇統は天武の崩御・大津皇子の粛清から数えてもたかだか80年そこそこしか持ちませんでした。既に744年(天平16年)の安積親王早世でとうとう草壁の男性直系子孫がいなくなってしまいましたが、流石に藤原氏が持統・草壁皇統の維持を諦めて、それに代わる新たな天武皇統を立てようとしても、結果的に大伯母の元正天皇同様独身を余儀なくされ、最後の持統・草壁皇統下の天皇となってしまった孝謙・称徳天皇に何度も阻まれてしまいました。藤原氏にとっては自分達の為に政治的に利用して強引に立太子・即位させた称徳という飼い犬に手を噛まれるハメとなってしまったのです。

だから称徳の崩御=天武皇統(実際は持統・草壁皇統)の断絶となりました。天武天皇の皇子達の中でも母親の身分が高かった(母方の祖父が天智天皇)舎人親王・長親王の息子または孫達もいなかったわけではなかったのですが、奥さんの身分が高くなかったり、文屋浄三・大市兄弟(天武の孫、つまり長屋の再従兄弟である)みたいに臣籍降下していて、しかも高齢だったりと有力と言える程の候補がすっかりいなくなってしまいました。塩焼王は聖武の皇女で称徳の異母妹だった不破内親王と結婚していましたが、彼自身が反乱を起こした藤原仲麻呂に担がれて敗死したのでとうとう白壁王という天武の直径子孫ではない、天智の三世王が後の光仁天皇として即位したのです。

前述した通り、日本の天皇制はあくまでその宗教的本質等から、男系子孫による皇位継承がなされなければいけないので、あくまで光仁天皇は新天智皇統の初代天皇でしたが、称徳の、今度は異母姉だった井上内親王、皮肉にも安積の死という草壁男系子孫の断絶で伊勢神宮の斎王の任を解かれてその白壁と結婚、しかも44歳という高齢出産で他戸親王を儲けたので、女系でありながらも持統・草壁の血もこれから受け継がれていくと思われました。しかし、自分達で擁立しておきながら、称徳のワガママに振り回された藤原氏はもう持統・草壁の血にはコリゴリでしたので、その血統はやはり過去ログで述べた通り、完全なるトドメを刺されたのです。

本来なら一傍流皇族として一生を終えるはずだった山部親王が後の桓武天皇として即位したのですが、桓武天皇は(おそらく)この持統・草壁皇統を反面教師として、万が一直系男性子孫がいなくなってもその兄弟が皇位継承できるようにしました。弟の早良親王は長岡遷都を指揮していた藤原種継の暗殺事件への関与を疑われて憤死、その後も薬子の変や承和の変が起こる等却って政争の種になってしまい、必ずしも成功したとは言い難かったですが、もう女帝の登場する出番は江戸時代初期まで800年以上ありませんでした。嵯峨天皇の直系子孫による皇位継承が確立される事になり、藤原氏も天皇に重用された藤原冬嗣出身の北家のみが大きく栄える事となりました。

嵯峨天皇はまた、自身も子沢山で男子だけで23人もいましたが、その内17人の皇子達が源氏二十一流の最初の一派となったのもその後の皇位継承の大きな伏線となりました。冬嗣の息子、藤原良房が清和天皇の外祖父になったかと思ったら、その次の陽成天皇から、やはり本来なら傍流老皇族として一生を終えるはずだった時康親王(光孝天皇)という大叔父さんへの不自然な皇位継承が行われましたが、さらにその後の臣籍降下していた源定省が息子の維城共々皇族復帰・即位(宇多天皇)となったのは前述した通りでしたが、これはまた、基経の妹、藤原淑子の猶子だった事以外にも、母親が嵯峨天皇の兄弟の一人だった仲野親王の娘、班子女王だったのも大きかったと思われます。しかし、こうした定省即位の経緯も、「もう一人の古代日本における『出る杭は打たれる』の代表例だった菅原道真の悲劇の大きな一因となったのですが、それはまた日を改めてという事で。

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