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2011/08/20

連敗中のオリックスバファローズと今は無き近鉄バファローズの「伝統」その1

http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20110820-822976.html

<日本ハム4-0オリックス>◇20日◇札幌ドーム

 オリックスが5連敗を喫した。勝敗の分岐点は0-1の6回。1死三塁で荒金久雄外野手(33)の右飛で三塁走者のアーロム・バルディリス内野手(28)がタッチアップ。同点と思われたが、サード小谷野栄一内野手(30)のアピールで三塁塁審は離塁が早かったと判定。岡田彰布監督(53)が2日連続で審判団に抗議したものの判定は覆らなかった。直後の6回裏に追加点を奪われ、8回にも2点でダメを押された。

 試合後、この場面を質問された岡田監督は「野球の話か。(あの1点が)あればとかそんな話ちゃうやろ。そんなことしかないんか」と会見を打ち切った。前日19日は際どいボール判定で延長サヨナラ負けを喫し、試合後、審判室に怒鳴り込んでいた。

 [2011年8月20日19時15分]

パリーグももはや2強4弱だが・・・・・・・・・斉藤に4勝目を献上する形となってしまったけど、こういう判定もビデオ判定にすれば良いのにですね。

そう言えば、近鉄と合併してからもう6年経って、近鉄に対する扱いは記録等の面では傍系扱いとなっていて、最近も西武戦では近鉄の往年のユニフォーム(1974~96年に使用されたブレーブスタイプ)が使用されていたけど、近鉄バファローズの「伝統」は大きく2つ挙げられると思います。1つは、全盛期には並々ならぬパフォーマンスを見せたが、衰えの早い投手が多く、息の長い活躍を見せた投手はあまりいなかった。2つ目はこれはヤクルトにも言える事だけど、打つ方でも外国人頼りだったという事です。

http://gararoom.hp.infoseek.sk/kuzukago.html

投手については、上記HPでのコラムでも指摘していた人がいたけど、近鉄は消滅直前の2004年時点現存していた12球団の中では、100勝以上挙げた投手は「草魂」鈴木啓示以外には2人しかいなかったのです。柳田豊は生涯では110勝でしたが、内16勝は、西鉄・太平洋時代の勝ち星で、佐々木宏一郎も、生え抜きではなく、当時の大洋・三原脩監督にクビにされた所を拾ってもらえたのです。つまり、純正生え抜きでは鈴木の他には、関根潤三とは同級生でもあった武智文雄しかいないのです。沢藤光郎も、近鉄参加時点でもう30歳だったから、あと5歳若ければ100勝を達成できていたかもしれなかったけど。

その武智ですら、目立った活躍をしたのはwikiでの成績を見れば分かると思うけど、1951年と1954~56年の4シーズンしかなかった。(内1954年は最多勝に輝いたが、チームもAクラス入りを果たした)「猛牛」千葉茂が監督に就任した1959年に入団した久保征弘も、3年間の下積みを経て、別当薫に監督が代わった1962年には最多28勝を挙げ、翌63年にも防御率1位となり、チームもあと少しでAクラス(残念ながら、西鉄ライオンズの14.5ゲーム差を跳ね返す大逆転劇を演出する形となってしまったが・・・・・)とそこそこいい線行ったが、1964年に10勝に終わると、中日に移籍しても往年の力は発揮できず、最期の阪神では1軍登板すらありませんでした。ただ、これが縁だったのか、何度か引退後に阪神のコーチを務める事はできました。

前述の佐々木が近鉄に入団したのは、久保が防御率1位となった1963年の事で、コーチとなっていた武智に厳しく鍛えられ、1965年に最多敗戦投手になったのにもめげずに1967年からはエースとして定着、翌1968年からは自分を首にした三原の元でまたプレーする形となってしまったけど、1970年には17勝5敗、勝率.773の好成績で最高勝率のタイトルも取り、防御率2.05も2位でした。

しかし、三原がヤクルトに去り、岩本尭に監督が変わった後の1973年、30代に突入するかしないかの年頃でしたが、この年から急に衰えてしまった。1975年には島本講平とのトレードで当時ノムさんがプレイングマネージャーとして奮闘していた南海ホークスに移籍、ここでは主に中継ぎとして起用されましたが、ノムさん解任後の1979年、南海の凋落は明らかなものとなっていましたが、3勝7敗ながらも、防御率3.47はリーグ10位以内でいくらかはベテランの意地を見せ付けました。ただ、この年と次の1980年に最も長く在籍していた近鉄の優勝を見る事になってしまったのは皮肉で、実際ご本人も、優勝を経験できなかったのが心残りだったと言っていたといいます。最も惜しかったのは1969年でしたが、阪急との最後の直接4連戦で1勝3敗と負け越し、リーグ3連覇を見せ付けられてしまいました。近鉄のあの10.19と南海の身売りを見届けた後の1989年5月に若くして亡くなりましたが、あともう少し生きていて、近鉄3度目の優勝を見たらどのように思ったのだろうか・・・・・・・・

佐々木が生涯最高の成績を残した1970年には、甲子園の元祖アイドルだった太田幸司が入団し、その人気と言ったら今の斎藤佑以上だったらしいけど、後期優勝した1975年の12勝以外には、翌1976年の9勝7敗、防御率3.94、1977年の10勝14敗、防御率3.21、そして初優勝した1979年の防御率3.31がそれなりに目立った程度で1980年以降のプロ5年間はとうとう未勝利に終わってしまった。さあ、斎藤はどうなるか・・・・・・

打つ方でも、近鉄の打線はピストン打線と呼ばれてきて、小玉明利やフジテレビの解説で御なじみの関根潤三が弱体打線を支えてきた。そんな中、外国人の助っ人も段々日本に来るようになってきて、60年代近鉄の代表的な「打の助っ人」と言えば、やはりジャック・ブルームだろうけど、彼はアベレージバッターだった。(後に南海でノムさんとチームメイトになり、リーグ優勝に貢献している)前述の1969年の優勝争いの時にはジェン・ジムタイルがいたけど、65試合で僅か8本塁打(しかも、得点数が本塁打数より少ない珍記録も残している)では1年で帰国となったのも無理なかった。その後やってきたテハダもジョンソンもハンキンスも駄目だったから、西本幸雄を監督に迎えた1974年には、ついに他球団で既に実績を残している助っ人を取ろうと考え付いた。

そう、彼こそが前年の1973年の「南海死んだフリ」優勝に貢献したクラレンス・ジョーンズで、移籍1年目はチームは5位に終わったが、38本塁打で本塁打王となると、前述の柳田を得た代わりに長く4番で打って来た土井正博を放出した1975年にはマークの厳しさが予想され、打率は低打率だったけど、29本塁打で後期優勝に貢献した。1976年にも本塁打王となったが、1977年に打率1割台に終わると、お役御免となった。しかし、ジョーンズ以上の大物助っ人を、近鉄はこれまた他球団から得る事が出来た。

現在フィリーズの監督としても活躍中の「赤鬼」チャーリー・マニエルで2年連続で本塁打王と、使用球の恩恵に与かれたのもあったけど、全くリーグの違いを物ともしなかったのです。チームは1979・80年と連続優勝。太田はあまりパッとしなかったけど、6年間で12勝だった井本隆がこの2年間で一気に倍以上の30勝と大ブレイク。鈴木らと共にローテーションを守りました。

しかし、使用球が変わり、マニエルがヤクルトに戻った1981年、井本は一転して5勝に終わり、チームも最下位に転落、西本監督は奇しくも、阪急との最終戦で両チーム選手から胴上げされながら勇退する事となります。翌1982年には井本は11勝4敗・防御率3.37の好成績で復活、8年目の谷宏明も11勝を挙げ、ローテ定着が期待されました。しかし、井本は王貞治に756号を打たれた鈴木康次朗とのトレードでヤクルトに移籍するも、全くの不振に終わり、引退、谷も以降は1984年の防御率3・57がそれなりに目立った程度で井本同様最終的にはヤクルトで引退しましたが、特に井本は近鉄を優勝させる為だけに入団したような選手だったと言えなくも無いですね。続きはその2で。

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