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2011/08/21

連敗中のオリックスバファローズと今は無き近鉄バファローズの「伝統」その2

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/5-faf8.html

前回の続きです。1983年には5位の南海とも僅差だった4位に沈んだ近鉄、翌1984年にはワールドシリーズ出場経験もあるドン・マネーを獲得します。マネーは開幕して僅か1ヶ月強後に待遇の悪さへの不満から途中帰国してしまいますが、急遽代わりの助っ人が入団しました。リチャード・デービスその人です。チームは南海戦での2試合連続サヨナラ勝ちがありながらも、最終的にはAクラス入りすら逃す事となりましたが、デービスは78試合出場ながらも18本塁打、打率.310の好成績を残します。

翌1985年にはデービスの打棒は本格的に爆発。落合博満の三冠王を許しはしましたが、40本塁打、109打点、打率.343の好成績で、投手陣も5年目の石本貴昭が大ブレイク。リリーフとしてフル回転し、規定投球回数にも到達、19勝3敗7セーブで、最高勝率にも輝きました。しかし、それにも関わらず、チームはAクラス入りがやっと。通風で治療中の広岡達朗監督が不在だった西武のリーグ優勝も目の前で見せ付けられました。

1986年にも2人とも投打の主軸として、最後まで監督が森祇晶に代わり、清原和博が入団した西武との優勝争いを繰り広げました。3年目の小野和義も14勝を挙げて、ローテ投手の仲間入りを果たしましたが、途中6月の直接対決でデービスは東尾修の死球に激怒し、10日間の出場停止処分を受けます。

翌1987年には、巨人と横浜大洋からも1位指名を受けた阿波野秀幸が入団、第2の「打の助っ人外国人」も、マネー同様、友好球団であったミルウォーキー・ブリュワーズからのルートでベン・オグリビーを獲得しました。去年同様優勝争いをするかに思われ、実際阿波野自身は期待通りの成績(15勝)を残しますが、デービスが91試合出場にとどまり、石本も2年間酷使された疲れが出る等の要因で一転して最下位に転落、西武には5勝19敗2分と「お客様状態」でした。

仰木彬が漸く監督に就任した翌1988年にはデービスは大麻所持で途中解雇となりますが、また他球団から強力助っ人を近鉄は獲得します。中日の2軍でくすぶっていたラルフ・ブライアントです。最終戦ロッテとの10.19ダブルヘッダーでは惜しくも優勝を逃しましたが、翌年の西武との10.12ダブルヘッダーでは、ナベキュウからブライアントが本塁打をかっ飛ばし、9年ぶりのリーグ優勝、帰国したオグリビーに代わって来日したハーマン・リベラも、打率は.260でしたが、公式記録では無いながらも、リーグの最多勝利打点を記録しています。

仰木彬監督・中西太コーチのコンビからしたら、1958年の借り(巨人VS西鉄の日本シリーズ)を返された形となった日本シリーズ)に敗戦した直後、近鉄は今度はあの野茂英雄を獲得します。リベラの後釜の第2外国人もジム・トレーバーが入団し、2人とも期待通りの活躍を見せましたが、ペナントレースは西武の独走に終わり、近鉄はAクラス維持がやっとでした。1991年は終盤まで優勝争いを演じましたが、ブライアントの欠場が響き、勝率.616ながら西武に4.5ゲーム差の2位に終わりました。彼がフル出場していたら、V奪還ができていたかもしれません。

トレーバーがこの年限りで、年俸面で折り合わず、退団となった為、ブライアントの代役を務めていたジェシー・リードが第2外国人となりましたが、やはり期待通りの成績を残せません。そこでシアトル・マリナーズでバリバリの4番打者だった経験がある、アルビン・デービスを獲得しましたが、彼も駄目でした。ペナントレースは日本ハムに予想外の苦戦を強いられた(この年負け越す)事が響き、2位は確保したものの、6月以降早々と西武の独走を許す事となりました。

監督が鈴木啓示に代わった1993年には、横浜大洋からロバート・レイノルズを獲得し、マニエルやブライアントのような成功が期待されましたが、左投手に弱い弱点をつかれてしまい、やはり期待通りの活躍はできませんでした。ペナントレースは6年ぶりにBクラス転落となり、西武・森監督の目の前の胴上げを阻止したのが救いでした。

この間、投手陣では野茂はスーパースターぶりを遺憾なく見せ付けましたが、彼以外の投手陣、阿波野や小野、そして「巨人はロッテより弱い」と暴言を吐いたと言われている加藤哲郎等他の投手陣が早くも衰えを見せる事となってしまったのです。

高村佑、山崎慎太郎、赤堀元之が活躍してきたと思いきや、彼らも思ったほど長続きしなかった。高村は結果的に1年目の1992年がベストシーズンとなってしまい、以降2桁勝利のシーズンは1度も無かったし、山崎も、最後に規定投球回数に達したのはまだ30歳だった1996年の事で、赤堀は他の近鉄の投手達と較べると、やや息は長いほうでしたが、まだ28歳だった1998年には早くも衰えが明らかになる等やはり早熟型でした。

この間、野茂英雄は、鈴木監督との確執等から大リーグ・ロサンゼルスドジャースに活躍の場を移す事となってしまい、阿波野や小野も移籍、彼ら同様やはり野茂の入団とほぼ入れ替わりでパッとしなくなっていた吉井理人も、西村龍次とのトレードでヤクルトに移籍しましたが、入団した選手より放出した選手の方が活躍した失敗トレードとなってしまいました。そんなチグハグさもあって、1995年シーズンは、長く主軸として打棒を爆発させていたブライアントも衰えは明らかとなり、レイノルズの次の第2外国人として入団していたスチーブンスも、それなりながらも物足りない成績だったのですが、8月には40代となっていた佐藤義則にノーヒットノーランを許す屈辱も味わい、最下位に沈みました。1996年も、最後の最後でもう少しで西武にAクラスの座を奪われる等1984年に似たパターンで、この年を最後に本拠地を大阪ドームに移します。

その大阪ドーム元年だった1997年には、やはり長く日本で活躍する事となったタフィ・ローズとフィル・クラークの外人コンビの打棒や、小池秀郎のブレイク(15勝6敗)で3位となりましたが、小池が活躍したのはこの年限りで1998年にはほぼ最後まで日本ハムの大失速もあって、優勝争いはしましたが、最終的にはガタガタだったオリックスにも抜かれて5位、1999年と2000年には中村紀の活躍もありながらも、連続最下位に沈みました。

2001年には、クラークの代わりに来日したショーン・ギルバートは不振でしたが、彼以外の打撃陣は概ね絶好調で球団の歴史でも、この年のいてまえ打線は1980年の時ともほぼそん色ない強力打線を形成しました。特にローズはあの王貞治と並ぶ、シーズン55本塁打を記録しています。ダイエーに大きく負け越しながらも、12年ぶりのリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズでは前年最多投球回数を記録し、この年も防御率は5点台ながらも12勝をあげた前川勝彦の起用法等采配のまずさが目立ち、ヤクルトに敗れる事となります。近鉄最後の優勝したシーズンとなりました。前川は梨田監督との確執もあり、一旦阪神に放出されます。

翌2002年には、やはりマニエルやブライアント等の成功が忘れられなかったのか、かって日本ハムのビッグバン打線の主軸を担っていたナイジェル・ウィルソンを獲得しましたが、やはり期待通りの成績は残せませんでした。6月には大型連勝もありましたが、最終的には西武に16.5ゲームの、ダイエーとの同率2位に終わり、1990年とほぼ似たパターンを辿りました。2003年も開幕5連勝を飾る等スタートは良かったのですが、3位に終わり、ローズとも自由契約となりました。

そして近鉄ラストイヤーとなってしまった2004年、岩隈久志は徐々に成長が見られ、球団新記録となる開幕12連勝をマーク、最終的には15勝2敗の好成績を残しましたが、ローズがいなくなり、中村紀も怪我の影響で打棒がなりを潜めてしまったとあっては、他球団にとって近鉄は組み易しな存在となってしまいました。代役を期待されたラリー・バーンズも到底期待に応えたとはいえなかった成績で、西武の全球団勝ち越しを阻止する等意地は見せましたが、周知のとおり、オリックスとの合併で消滅する事となりました。

しかし、近鉄バファローズとしては消滅しても、その「伝統」とは決別した事にはなりませんでした。新生オリックス元年となった2005年、既に癌に侵されていた仰木彬監督が4年ぶりに指揮をとる事となりましたが、打力の弱さが響き、もう少しのところでAクラス入り、即ちプレーオフ進出を逃します。新たな助っ人外国人、ガルシアとブランボーいずれも主軸としてはもう少し物足りない数字でした。ガルシアは翌2006年にも残留しましたが、前年を下回る成績に終わり、ルーキーの平野佳寿も、この年と翌年の2007年に8勝をマークしましたが、その後は暫くパッとしなくなります。2007年にはローズが「バファローズ」に復帰、やはり他球団から獲得したグレッグ・ラロッカとの主軸コンビを組みますが、チームはオリックスバファローズとしては初の最下位に沈みました。

翌2008年には、アレックス・カブレラが入団、所謂「ビッグボーイズ」の結成となりました。現実にはラロッカは26試合の出場にとどまりましたが、他の2人は変わらぬ打棒を見せつけ、弱体だった投手陣も、小松聖・金子千尋・近藤一樹・山本省吾のカルテットが合わせて45勝をあげ、テリー・コリンズ監督の退団騒動を跳ね除けて2位に躍進しました。

しかし、彼らの勢いも長続きしない。2009年にはやはり他球団のお古である、ホセ・フェルナンデスを獲得しましたが、4人とも主軸としては物足りない成績に終わり、また最下位に逆戻りしました。2010年には、ローズとフェルナンデスがいなくなった代わりに阪神からアーロム・バルディエスを獲得し、本塁打と打点は物足りない数字でしたが、打率は3割をマーク、カブレラも最高出塁率のタイトルを取り、5位ながらも、借金は僅か2でした。

そして、東日本大震災の影響で開幕が遅れた今年2011年も、まだプレーオフ進出の可能性はありますが、カブレラもいなくなったと思ったら今度は巨人から李承ヨプを獲得しました。しかしもはやかっての打棒は見られない状態であり、バルディエスも研究されているのか、打率でも物足りない数字です。平野は、2010年からのリリーフ転向が当たった形となっていますが、2008年の先発2桁勝利カルテットも、金子以外はパッとしないシーズンが続いているし、その金子にしたって、今年は怪我で出遅れ、4年連続2桁勝利は微妙な状況にあります。移籍組では、寺原隼人は頑張ってますが、木佐貫洋はやはり未だ1勝しか挙げてません。チーム防御率は8月20日現在でリーグワースト。打線もさほど強力ではありません。(山本は2011年からは横浜でプレーする事となった。)

以上2回に分けて長々と述べてみましたが、オリックスバファローズとなっても、チームの成績と、他球団からの獲得も依然多い外国人選手の打棒がほぼ比例し、投手陣も潜在能力のある選手は多いながらも、実際安定した成績を残せている選手は少ない事が分かると思います。そういう意味では、金子や平野もそうですが、元近鉄の岩隈も、楽天時代とあわせれば、100勝はクリアしていますが、今後どうなるか?やはり気になる所ですね。ついさっき分かった速報では、今日も日本ハムに負けてしまい、これで6連敗、3タテを食らう形となってしまったが・・・・・・・

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