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2010/01/23

里中満智子「天上の虹」における大津皇子とその周囲の人間関係等

今年は平城遷都1300周年で、平城遷都が行われた710~784年(または794年)は奈良時代と言われていますが、その前の飛鳥時代を題材とした作品の一つに、里中満智子氏のライフワークと言うべき「天上の虹」が挙げられます。

持統天皇を主人公としているこの作品、そろそろ終盤もいい所なようですが、自分が興味深く思った事の一つは、持統天皇から見れば甥にあたる大津皇子の事件(天武天皇の崩御後謀反をたくらんだとして死を賜った)についての解釈です。

作中での天武天皇は、一度皇太子にした讃良(持統天皇)との間の皇子、草壁皇子の政治的能力に疑問を抱き、死の直前大津皇子に譲位したい旨の事を告げます。大津は実は、大名児との恋に落ちていたのですが、讃良の意向で兄であり従兄弟でもある草壁皇子(大津皇子の母の大田皇女は、讃良の姉であったが、夫の即位を見ないまま早世してしまう)に奪われてしまった。

ただ政治的実権を握るだけなら、異母兄の高市皇子が言った様に「名よりも実を取る」べきというか、草壁を象徴天皇として、自分はナンバー2の皇族として存分にその能力を発揮していればよかった。しかし、彼女を取り戻すには天皇となるしかなかったので、何がなんとも即位したかったのです。しかし、結局説得し忘れたまま崩御してしまい、里中女史が明言した様に、大津の恋ゆえのあせりと、自分が腹を痛めて産んだ子を天皇にしたい事等の讃良の意地がぶつかり合う事となりましたが、ここでさらに強調しておきたいポイントは、大津の妻は山辺皇女であった事です。

古代の天皇家は血縁関係が複雑なのですが、同じ天智天皇の皇女であった彼女は讃良にとっては異母妹であり、義理の姪、大津にとっては、后でもあるが、伯母でもあり、従兄弟でもあった。その山辺皇女に讃良はどうやら含む所があって、どことなく冷たい。それもその筈で、彼女の母は、壬申の乱で失脚した蘇我赤兄の娘だったのですが、この赤兄こそ讃良にとっては不倶戴天の天敵だったのです。

讃良の少女時代の想いの人は、孝徳天皇の皇子だった有間皇子でしたが、彼は赤兄にクーデターを煽らされてしまい、引っかかって処刑されてしまった。夫の大海人(天武天皇)も、天智天皇崩御直前にやはり処刑されそうになった。結局壬申の乱で大津京時代終焉の後流罪となったけど、大津が天皇になれば、そんな憎っくき赤兄の孫が皇后になる。さらにこの時点で、赤兄がまだ生きていたかは不明ですが、生きていれば「皇后の祖父」として子女共々名誉回復される可能性もあった。讃良も母は赤兄の兄、蘇我石川麻呂の娘(だから山辺とは又従姉妹でもあった)だったので同じ蘇我氏の血を引いていたけど、そのような事はとても受け入れられる事ではなかったのです。(※なお、赤兄の娘は他にも大海人に嫁いだ大ぬ娘がいて、彼女は大海人の妻達の中では最後まで生き残って、皇族の長老として正三位まで生前((死後正二位))に上ったけど、父や姪の山辺以外にも、息子の穂積親王但馬皇女との密通がばれて一時左遷されていたと言われている。讃良死後に太政大臣に準ずる知太政官事にまで出世したけど、結局先立ってしまい、孫達は息子ほどの出世は出来ないまま歴史に埋もれてしまった。作中ではあまり深刻には描かれていなかったようだけど、肩身の狭い思いをしたという想像は難くないでしょう。)

結局大津は「ももづたふ・・・・・」の歌を残してこの世を去る事になり、里中女史も、主人公の讃良よりにこの事件を描きながらも、大津に対しても同情的な見解を述べていましたが、私は正直そのような気にはなれない。確かに大津は女性ファンの方から見れば、有能で性格もおおらかで明るい。容姿も美しくて魅力的に映ると思うけど、彼女らの反感を買うのを承知でまた言わせてもらうと、反面軽率で世間知らずだった所があったのも否めない。

特にそれが表れていたのが、結局クーデターに失敗して謹慎させられていた時に、「俺の敵は草壁だけだとおもっていたのが大きな誤りだった。」というような事を言っていたけど、それこそ「何を今更」というか、「はあ?」でしたね。

そんなのイロハのイだったろうよというか、草壁が敵なら讃良も敵に決まっている。大海人の息子達の中で最年長だったのは高市皇子だったけど、彼の母親・尼子娘は吸収の豪族の娘で身分は低かった。大海人には大田・讃良の他にも、大江皇女、新田部皇女と天智天皇の皇女4人を妻にしていたけど、大田は早世、大江・新田部はそれぞれ長親王・舎人親王を産んだけど、彼らは草壁・大津より年少(長皇子は生年はハッキリ分かっていないが、715年に亡くなった時点では40代後半程度と推定される)であった。血統・年齢双方で草壁が有利だったのは確かだったけど、そんな自分の子を天皇にしたいのは自然でしょう。何もおかしい事ではない。大津は、母親が早く亡くなってしまった事もあって、分かっていなかったのだろうけど、もし大田が生きていたとすれば間違いなく皇后になっていて、讃良と同じ想いを抱いていたに違いない。作中での大田は妹の讃良とは対照的だったというか、おだやかな人柄であったけど。大津に対しては酷な言い方になってしまうけど、結局夜郎自大な青二才であった。それこそが大津皇子の限界点に他ならず、命取りになってしまった。史実はともあれ、少なくともこの「天上の虹」では大津にも問題があったと思います。

大津よりも草壁の方こそが悲劇でした。彼はおだやかで優しい性格だった。母親の身分が大した事なければ一皇族として平穏な一生を過ごせたかもしれない。しかし、なまじ天智の孫として生まれてしまった為に皇太子として不向きな政治に携わる事になってしまった。そんな内に血統的にライバルの大津が皇太子に匹敵する地位として政治に参加することとなり、後継者問題は実質白紙となった。それでいて政治能力では差をつけられる一方。文化でも、歌は凡庸であり、才能は大津に遠く及ばない。讃良の意向で関係を持った大名児も実は大津の方を好んでいた。

大津は、草壁を蹴落とす事にさほど罪悪感はなかったのだけど、草壁は優しすぎた。藤原不比等川島皇子(この人は結局不比等に自分の出世の為のステップとして利用されて人望を失ってしまったけど、まさに「いい面の皮」でした)をそそのかして讃良にチクらせて大津を死に追い込んだことで後継者の地位は保てたけど、精神の平衡をスッカリ失って髪は白くなり、とても後継者として政治を行えるような状態ではなかった。娘の氷高(元正天皇)にまでそんな「不甲斐なさ」を責めたてられてしまったけど、ついに生きている事自体がつらくなり自殺する事となったのです。

実は後に皇子の軽皇子(文武天皇)に娘の宮子を嫁がせるなど藤原氏第一次黄金期を築く事となるその不比等が、草壁急死直前の688年に、従五位下に相当する官位を得た事等から、実は草壁体制が樹立しつつあったのではないかとの意見もあり、また、あまり古代の人を現代的な感覚で見るのはナンセンスなのかもしれないけど、この草壁の「苦悩」はよく理解できるというか、伝わってくるものがありました。しかし、結局この後、軽皇子が成人するまでの中継ぎとして讃良が即位するも、この大津事件の時点で既に天武皇統は持統・草壁皇統に矮小化(奈良時代の政変もこの点をしっかり認識しておかないと理解できない)してしまった。その持統・草壁皇統自体も断絶してしまって、天智天皇の孫であり、作中では病気で寝込んでいた兄弟の川島皇子を優しく励ました志貴皇子の子であった光仁天皇の皇太子であった他戸親王も母の井上内親王共々変死。天武系の血を引かない山部親王(桓武天皇)の立太子により、皇統は天智系に完全に戻ってしまったのです。

その持統・草壁皇統最後の天皇であった称徳天皇についても、里中女史は題材にしていましたが、これについてはまた機会ある時に述べたいと思います。

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