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2009/11/26

佐野洋に対する、「10番打者」での別所毅彦過小評価への批判

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昨年夏、「週刊ベースボール」創刊50周年を記念した特別企画号が出版されました。内容は、まず「ONを神聖視しすぎなのでは」だけど、最後の方に、佐野洋氏原作「10番打者」の中の話、別所毅彦引き抜き事件等を題材にした「不均衡計画」が掲載されてましたが、正直「?」な内容でした。一部記述を引用してみます。

その後(巨人移籍後)の別所の働きについては、多く触れる必要はあるまい。(中略)三十五年に打ち立てた三百十勝という記録は、前人未踏の記録として球史に輝いている。

しかし、『桜機関』員であった私は、この大記録も、彼が巨人軍にいたからこそ、達成できたのではといいたいように思う。つまり、例の別所事件がおきたとき、連盟が巨人に有利な裁定をせず、太陽あたりにいせきされていれば、決してこれだけの投手寿命を持たず、また勝利数も上げられなかったのではあるまいか?その証拠として、ほとんど同じ時期にプロ入り、同じように剛球投手であった真田(朝日-太平-太陽-松竹-阪神)とを比較してみよう。(中略)

別所が巨人に移る二十三年の末までに、別所は八十七勝、真田は八十六勝で、ほとんど同じような成績をあげていたのだ。真田は、体格も決して小さいほどではない。その後も、別所と同様な成績を上げたとしても、何の不思議もない選手だった。だが、彼は昭和三十年に二勝をしたのを最後に、引退を余儀なくされた。合計勝利度数は178である。(中略)

この差は、どうして生じたか?やはり体力にまかせ、不調時にも登板するという無理がたたったためであろう。ことに、所属の松竹が優勝した二十五年には三百九十五三分の二回という登板を強いられた。

だから、もし別所も、巨人への移籍が流れ、弱小チームに移されたら、こんにちの大記録は作れなかったはずだ。この意味で、別所の大記録を生んだというだけでも、『不均衡計画』は、一つの成功を納めたといえるであろう。

まあ、こういう「強いチームにいたから勝てたんだ。」の弁、そのいた人を否定するには便利な詭弁と言うべきか、よく聞かれますが、確かに全く関係ないとは言わない。しかし、まず真田こと、真田重蔵を比較対象にしたその時点で説得力に欠けるのは否めません。

打者の価値を表すのが打率なら、投手は防御率と言うけど、真田は1流ではあったけど、同時代に投げたエース達の中でずば抜けていた存在だったわけではない。

生涯防御率は2.83だったけど、別所の2.18以外にも、完全試合男・藤本英雄の1.90(日本記録)、戦後はやはり弱小球団でなげたビクトル・スタルヒンの2.09、選手兼監督も務め、45歳まで投げた若林忠志の1.99、やはり弱小チームにしか所属しなかった為に優勝経験すらなかった「元祖鉄腕」野口二郎の1.96、フォークの神様・杉下茂の2.23中尾ひろ志(変換できん)の2.48川崎徳次の2.53他の彼らと比べていずれも劣る数字です。

防御率ベスト10に入った回数を見ても、真田は昭和18・23・25・27年の4回で、中尾の3回よりは多いけど、スタルヒンの12回、若林の10回、藤本の9回、野口・杉下の7回、川崎の5回に比べるとやはり少ないのです。

「強いチームにいたから別所はあんなに勝てたんだろ。」と言うけど、それを言うのなら、真田だって生涯の勝ち星の5分の1強を一気に稼いだ昭和25年(シーズン39勝は現在もセリーグ記録)は、あのプロ野球史上5指に入る、強力な「松竹水爆打線」のおかげだし、大阪(阪神)に移籍した昭和27年も、防御率3位で16勝9敗の好成績を収めたけど、毎日の引き抜き事件の後遺症がまだ残っていたとはいえ、当時の大阪は、まだ藤村富美男もバリバリの四番で、決して昭和30年代後半~40年代のような貧打線だったわけではなく、勝率.664で巨人に3.5ゲーム差の2位でしたが、得点数も巨人に次ぐ600点で、120試合制だったので、丁度1試合に5点取っていた計算です。

その昭和25年に、作者は真田が400回近く投げた事を強調していたけど、この時代、稲尾和久はやや例外だったにせよ、何処のチームのエースも似たり寄ったりな酷使をされていて、決して真田だけが異常だったわけじゃない。

別所と真田、彼らの生涯勝利数が130以上も差がついてしまったのは、1に「純粋な投手としての能力の差」、2に「何処のチームで投げさせられようが関係ない頑丈な肉体との差」です。実際、中3日で登板させる事を要求して、当時の巨人・水原茂監督に「それは監督が決める事だ。」と立腹させてしまった事もあったし、後年の解説者時代の巨人びいきぶりから、「もう南海に在籍していた事すら忘れてるんじゃないか。」と揶揄する声も聞くけど、決してそんな事は無く、「さんまのまんま」に出演したさいにも、南海時代の昭和22年にシーズン47完投を記録した事を真っ先に自慢したと言います。

前述の中尾や川崎とは比較的生涯防御率は近いですが、現行のルールに当てはめれば、真田は11年投げて内規定投球回数(当時は試合数よりも多く投げなければいけなかった)に達したのは7回に過ぎませんが、中尾は16年投げて13回、川崎は15年投げて11回規定投球回数に達しています。真田も、野口や、国鉄時代の金田正一みたいに決して全く打線の援護に恵まれなかったわけでなかったのですが、中尾は生涯巨人、川崎も最初の3年、南海に所属した後巨人・西鉄(ただし、三原脩監督の元、黄金時代を迎えたときにはもう成績は下降線を辿っており、昭和31年の、古巣巨人との日本シリーズでも第1戦に先発したが、ノックアウトされている。)に所属していた事を差し引いても、真田が彼らと同等、あるいはそれ以上の格な投手だったと評価するのも、やはりやや無理があります。

別所を過小評価しすぎというか、佐野氏にとっては耳が痛いであろう批判文になってしまったけど、指導者としては、別所は昭和36年に巨人投手コーチに就任するも、中村稔とのトラブルもあって、翌年シーズンに途中辞任、39年にはかって引き抜いた三原脩の元で、大洋の投手コーチに就任して、その年は最後まで阪神と優勝争いをして、2位浮上に貢献しましたが、翌40年は開幕ダッシュに成功するも、ずるずる失速、Aクラスどころか中日にも抜かれて4位転落、41年は南海からスタンカを補強するも、既に峠を越していて、アトムズとの同率最下位に転落した責任を取って退団しました。その後も、アトムズ・ヤクルトの監督を務めましたが、45年は楽天1年目の勝率よりも低い.264、特に巨人戦5勝21敗の惨敗で、8月の16連敗もあり、解任されました。

対する真田は、大阪明星学園の野球部監督に就任し、38年夏大会の優勝に貢献し、「初の甲子園優勝経験投手でもある、甲子園優勝監督」となりました。その直後プロ球界に復帰し、「世紀のトレード」小山正明が入団した東京オリオンズでは2年間ともBクラスに終わりましたが、阪急ブレーブス・近鉄バファローズでは西本幸雄監督の元、合計6度のリーグ優勝に貢献しました。同球団では、前述の野口との同僚でしたが、どうやら真田に軍配が上がった格好です。ただ、野球殿堂入りは、別所は昭和54年にその栄誉に浴する事が出来ましたが、真田はそれより11年遅れた平成2年の事でした。そして、もうあまり真田には時間が残されておらず、平成6年5月に亡くなり、別所も5年後の平成11年6月に、長嶋巨人2度目の日本一を見ることなく、眠るようにこの世を去ったのです。

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