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2009/09/21

ロシアにおける「歴史の法則」と大粛清

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090919-OYT1T01201.htm?from=main5

メドベージェフ大統領とプーチン首相の関係は、やはり亀裂が入っているようですが、確かに現状の分析・批判だけなら誰にでも出来ます。それを解決するのが大統領の仕事だと思うのですが、補佐的な経歴しか有していないだけに、自分の色を出したくてあせっているのかもしれません。いずれにせよ、「2つの権力は最後まで並び立たない」、これは歴史の法則の一つと言えます。

ロシアについて見れば、ロマノフ朝2代目ツァーリー、アレクセイ・ミハイロヴィッチ・ロマノフの息子、イヴァン5世とピョートル1世の共同統治は東ローマ帝国のコンスタンティノス7世、ロマノス1世及びその長男クリストフォロスの前例に倣ったものでした。この前例については、ロマノス1世の偉い所は跡継ぎにするはずだったそのクリストフォロスが先立って死ぬと、まだ残っていた無能な息子達の器量を見抜いて、世襲を断念、コンスタンティノスを次期正皇帝に指名した事でしたが、すんなりとはいかず、その息子達に追放されてしまいます。さらに彼らはコンスタンティノスも排除しようとしましたが、これは失敗してしまい、追放、しかし、ロマノス1世の追放は死ぬまで解かれませんでした。

イヴァン5世とピョートル1世も、イヴァンは病弱、ピョートルはまだ子供だった為に姉の摂政・ソフィアの専横を許し、やがて成長したピョートルによってソフィアは追放、イヴァンは共同統治者にはとどまり、30歳で若死にしながらも、子孫は残しました。しかし、結局曾孫のイヴァン6世はそのピョートルの娘のエリザヴェータ(イヴァン6世にとっては祖母の従姉妹)によって、廃位、まだ赤子だった彼は幽閉のうちに育ちましたが、監獄から逃げようとした所を殺される悲劇的な最後を遂げたのです。このエリザヴェータの甥、ピョートル3世の妃が池田理代子氏も題材にしたあのエカチェリーナ2世です。

ロマノフ朝が倒れ、ソ連が成立したのもつかの間、その翌年の1923年6月にレーニンは廃人となってしまったのですが、彼の晩年から書記長に就任した「ミスター独裁者」ヨシフ・スターリンは、グリゴリー・ジノヴィエフやレフ・カーメネフとトロイカを組んでレフ・トロツキーの追い落としを行いましたが、スターリンはこうした歴史の法則をおそらくロシアの歴代権力者の中では最も理解していたのか、あの大粛清を行い、オールド・ポリシェビキでスターリン以外に生き残ったのは、最高幹部会議会議長(国家元首)を務めていたミハイル・カリーニンアレクサンドラ・コロンタイ、そして側近で首相を務めていたヴァチェスラフ・モロトフ等ごく少数にすぎませんでした。しかし、彼らにしたって、カリーニンは儀礼的な役割を果たしたに過ぎなかったし、コロンタイは外交官として国外に派遣されていたのは表向きで、実質的には追放されていました。モロトフも、スターリンや前述のジノヴィエフらとは年齢的にやや下の世代で、第二次世界大戦中は首相をスターリンに譲り、外相に専念しましたが、戦後後継者候補として西側諸国のマスコミに報じられた為スターリンに疎んじられています。夫人もユダヤ人という理由で追放されてましたが、そこまで冷遇されても終始スターリン主義者だったのは・・・・・・・・

http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm

http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/cccp-usa-coldwar1947-1991-sai-axx.htm

大粛清については、その引き金となったセルゲイ・キーロフの暗殺も、スターリンが関わっていた説もありながら、擁護的論調も存在するようですが、やはりその弊害は決して小さくなく、経済的には上記URのHPから分かるように、最盛期だった1938年には経済成長率は1.8%に大きく低下しました。当事大粛清に大きく関わっていたNKVDの委員だったニコライ・エジェフはこの機能不全の責任を取らされ、解任、ドイツのスパイというでっちあげな理由で1940年に粛清されています。スターリンは彼の粛清について、「奴は人殺しだ。1938年に多くの人たちを殺した。だから我々が処刑したのだ。」と部下に言ったと言われていますが、「じゃあ、その人殺しを委員に起用したあんたの責任はどうなんだい。『私は知りません』な問題じゃ全然ないだろ。」と思わず突っ込みたくなりますね。(苦笑)勿論こんな事を当事のソ連で言ったら即粛清でしょうが・・・・・・・

スターリンの最期については、あれだけ多くの人を冤罪でこの世から抹殺したのに、まだ粛清しようとしていたから、逆に粛清されたのではとする説も根強いようですが、そのエジェフの「行き過ぎた点数稼ぎ」を告発した事もあった(そうしないと、今度は自分が粛清されるからだろうが。)ゲオルギー・マレンコフが後任の筆頭書記(兼任首相)に就任するも、集団指導体制を構想していた彼は二キータ・フルシチョフに筆頭書記の座を譲ります。しかし、首相の座も、腹心のニコライ・ブルガーニンに譲る羽目になるわ、元々は自分の構想であったスターリン批判の功をフルシチョフに横取りされるわなど踏んだり蹴ったりで、「歴史の法則」の例外にはなりませんでした。後任の首相となったブルガーニンもやがてフルシチョフと対立、ラーザリ・カガノーヴィチや前述のマレンコフ・モロトフと反党グループを形成しましたが結局彼らはいずれも失脚させられます。しかし、フルシチョフがこの集団指導体制を無視した事に対する反発も無くなったわけではなく、スターリン時代に引き続いてルイセンコ一派を重用した事もあって失敗した農業問題等もあって、彼もまた失脚を余儀なくされる事となります。

「権力の並立」がロシアである程度機能していたのは、その次のレオニード・ブレジネフ(書記長)、アレクセイ・コスイギン(首相)、ニコライ・ボドゴルヌイ(最高幹部会議会議長)のトロイカ体制の時代だったでしょう。しかし、このトロイカ体制にしたって、コスイギンは経済面では、計画・管理面での企業分権化などを目的としたコスイギン改革を行おうとしましたが、1968年のブレジネフドクトリンによるチェコスロバキア侵攻により頓挫、外交面では西側諸国とのデタントを主導し、印パ戦争の調停にも尽力しましたが、中国との関係は、1969年の国境紛争もあって悪化する一方だったし、デタントも晩年にはアフガニスタン侵攻で再び西側との関係が悪化する事となりました。もう一人のボドゴルヌイもやはり晩年には失脚しています。

その後、ユーリー・アンドロポフ、コンスタンチン・チェルネンコの政権が短命で終わった後、ミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカを推し進める事となりましたが、この時ゴルバチョフを推薦したアンドレイ・グロイムコは最高幹部会議議長に祭り上げられました。これは長期政権であったブレジネフ時代、所謂老人世代の時代からの生き残り(彼自身も既に76歳であった。)であった事を疎んじられたが故の人事でしたが、引退後はゴルバチョフがその座を兼任、1990年には大統領制を導入して、自らが就任する事でより強力にペレストロイカを進めようとしました。しかし、ゴルバチョフはまことにわが国では徳川慶喜に似ていたのですが、既に半ば連邦の維持すら難しい状態に陥っていて、ソ連邦は周知の通り1991年12月に崩壊する事となりました。

スターリンは現在ロシアで再評価を受けているようで、大粛清も歴史教科書では正当化されつつあるようですが、とんでもない。大粛清もまた長期的に見れば、間違いなく後年のソ連崩壊の要因の一つです。

この時、政敵トロツキーが創立した赤軍も、機械化を推進したミハイル・トゥハチェフスキー元帥等高官将校の実に3分の2も粛清されたのですが、冬戦争の失敗や独ソ戦争初期の大敗は間違いなくこの赤軍大粛清が最大の原因でした。その結果、確かに戦勝国にはなりましたが、被害は甚大なもので、そうした大きな傷跡を残したにもかかわらず、アメリカに対する超大国となった為に、東ヨーロッパ等の勢力圏維持等の為の経済・軍事的負担を、ゴルバチョフがペレストロイカを推進した末期を除いて以後殆ど強いられる事となりました。一方それよりももっともっと大切な軽工業等国民生活に密接に関係ある部門は軽視されました。

上HPからも分かるように、米ソの経済力の格差は、第二次世界大戦前・戦中においては、大粛清が沈静化した1939年の49.8(対アメリカ比率)が最大でした。しかし、アメリカは本土が戦場にならなかった反面、ソ連が受けた独ソ戦争等の甚大な被害で、終戦直後の1947年には28.7まで低下していました。その後1950年代には追い上げていき、フルシチョフも「あと20年でアメリカに追いつき、追い越す。」と息巻いたようですが、これは結果的に見れば過大評価で、1960年代に入り、一服、1970年代に西側で進んだ、コンピューター・半導体等の技術革命がソ連では殆ど起こらなかったこともあって、格差が最も接近した1975年においても45.0までつめるのがやっとで、後は崩壊まで次第に西側との格差は拡大していきました。つまり、1947年から30年近くかけて、やっと大粛清が始まった39年前の1936年の水準に戻したに過ぎなかったのです。

ソ連崩壊後、エリツィン政権時の経済混乱を経たプーチン政権において、国力は回復しました。しかし、それでもソ連を構成していた15の共和国の2008年次GDP(購買力平価換算。IMFによる。)は約3兆2700億ドルで、これは1929年から見れば、79年で約13.74倍の増加。約2兆2300億ドルなイギリスの9.29倍、約2兆1300億ドルのフランスの11.07倍に比べれば大きい(ただし上HPの数値は1990年基準のものである事に注意されたい。)のですが、アメリカ・日本・ドイツ・イタリアには及ばず、特にアメリカには比率で23.0にすぎず、1929年の28.2にもまだ及ばない数字です。近年のロシアの強硬な外交姿勢から、新冷戦とも呼ばれるようになったけど・・・・・・・・・・・

http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

そして、100年に一度の経済危機といわれている金融危機はロシアでも決して無縁ではなく、それはメドベージェフ・プーチン双頭体制の入りつつある亀裂の大きな要因となっていますが、今年は-5%台のマイナス成長となる見込みのようで、メドベージェフ大統領がいかに手腕を発揮していくのか?この先プーチン王朝は続いていくのか?大いに注目される所かもしれないですね。

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旧ソ連では、中央集権的な計画化経済のもとで小売価格は原則として全て国が定めた公定価格であった。食料品や家賃は非常に安価に、教育や医療は原則として無料、衣料品や耐久消費財は極めて高価に定められていた。社会主義の下で、富の分配の平等が公には掲げられていた。そして人々は、その理想は実は偽りで、共産党幹部をはじめとする一握りの特権グループに権力と富が集中する一方、働いても働かなくても同じ、という悪平等が支配していることを知り尽くしながらも「親方赤旗」の下での安逸の日々を送ってきた。...... [続きを読む]

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