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2009/08/11

国鉄時代を中心としたジャイアンツVSスワローズ戦の歴史を見る

今年高田監督を迎えて2年目の東京ヤクルト、今シーズンは開幕の阪神戦を勝ち越しスタート、久々に優勝争いに顔を出していました。ところが、先週の巨人戦、ヤクルトは21世紀に突入してからまだ1度も巨人戦で勝ち越していないのですが、同カード3連戦では全敗してしまいました。ゲーム差は7.5.ここでヤクルトは優勝戦線からは脱落したと見ていいでしょう。

連続負け越しが始まった2001年は、終盤の神宮3連戦で全敗しながらもリーグ優勝・日本一となりましたが、翌2002年は最終的に巨人の独走を許してしまい、2004年も、中日には勝ち越しながらやはりほぼ巨人と星を食合ったために落合監督1年目の優勝を許してしまいました。若松監督最後のシーズンであった2005年も、巨人が絶不調だったのにも関らずまた負け越したのが響いて連続Aクラスは4年でストップ、古田兼任監督1年目の2006年はAクラス争いでは勝利しましたが、21年ぶり(平成に入ってからは初)に最下位転落となった2007年、2008年には2年連続原監督の胴上げを見せ付けられる屈辱を味わいました。特に2008年は巨人戦でまたまた大きく負け越したことが響いて得失点差ではプラスながらも5位に終わったのです。

野村監督最後の優勝した年であった1997年には、広島から移籍した小早川毅彦選手(当時)の開幕戦本塁打で勢いをつけ、19勝8敗と逆に大きく勝ち越していたヤクルト、去年までの対巨人戦8年連続負け越しは、野村ID野球の元、旋風を巻き起こしたのがもはや遠い過去の事(野村監督自身も過大評価されているのは否めないと思う。広岡達朗氏のヘイトにも同意するつもりはないですが。)を象徴する出来事の一つに思え、とにかく巨人及びその「協力者」をたたきたくてしょうがないアンチ巨人(彼らの言ってる事は矛盾していて、論理的でないことが多いのですが。)からの攻撃材料を増やしている格好になっているとも言えます。アンチ巨人でなくとも、ヤクルトファンとしては巨人戦はイライラさせられる事が多いカードだと思いますが、ここで私が最近興味深く感じるのは、国鉄時代での対巨人戦戦績などです。

NPBが2リーグ分立したのは、周知のとおり1950年で、ヤクルトの前進・国鉄スワローズはその際にセリーグに新規加入したチームの一つでした。今年途中には早くも後の400勝投手・金田正一が高校を中退して入団しています。(この事が名球会会員資格を2リーグ制以降に活躍した昭和生まれのOBに限定した表向きの理由となっています。)新興チームだから当然戦力には恵まれず、同年には松竹ロビンズ(後に現在の横浜の前身である大洋ホエールズと合併。)が水爆打線のパワーで初代セリーグチャンピオンとなりましたが、1951年からは3年連続巨人が日本一(しかも、ペナントレースもいずれも全球団勝ち越し!!)となりました。この間まだプロに入って日の浅い金田投手は、後年ほどの制球力は無く、巨人戦で制球ミスから自滅した試合もありました。

巨人と国鉄の戦力差は歴然としていたのですが、そんな巨人を一泡吹かせたのは、その巨人から来た正三塁手・宇野光雄選手でした。トレードでの移籍となり、この経緯についてはウォーリー与那嶺氏の自伝でも言及されてますが、彼は古巣を見返すべく選手兼監督(監督は1956年以降)として奮起する事となりました。

かくして迎えた1954年シーズン、優勝候補巨人と、フォークボールの神様・杉下茂氏を擁した中日が優勝争いを演じる事となりましたが、国鉄も6月までは大阪(後の阪神)とAクラス争いを演じる健闘を見せました。オールスター後失速し、最終的には初の勝ち越し&Aクラスはなりませんでしたが、中日に6勝19敗1分と大きく負け越したのに対し、巨人には12勝14敗と善戦し、結果的に巨人の「V9」を阻む事となりました。(詳細は後述。)宇野光雄は選手としてもベストナインに選ばれましたが、この年はMLBでも、前年まで5年連続世界一だったヤンキースが103勝あげながらも、111勝したインディアンス(この年以降41年もリーグ優勝から遠ざかり、映画「メジャーリーグ」でネタにされる事になる。)の前にV6はなりませんでした。

翌1955年は9勝17敗と再び大きく負け越し、巨人は独走でペナントをものにし、日本シリーズでも1勝3敗からの大逆転劇をやってのけましたが、1956年には12勝14敗と善戦し、勝率を.485まで上げました。南海から飯田徳治選手を獲得した1957年にはついに初の巨人戦勝ち越しを達成しました。この年も巨人はスタートは良かったのですが、5月以降は中日に差をつけられ、それを縮めようとして国鉄に邪魔されるパターンが多く見られました。しかし一方で、その中日相手に金田投手が完全試合を達成した事で、中日は失速、巨人が4連覇を達成する事となりました。

そしてその年のオフに入団したゴールデンルーキー・長嶋茂雄選手の1958年プロデビュー戦もやはり後楽園での国鉄戦でした。金田との対決での4打席4三振は有名ですが、国鉄は巨人相手に3連勝という好スタートを切りました。しかし好事魔多し。5月下旬の阪神戦で飯田選手がアキレス腱断裂した事で徐々に失速、この年はまた、金田投手のベストシーズンで31勝14敗。防御率1.30の好成績で投手三冠王となりました。しかしそんなスーパーエースがいながら、最終的にチームはBクラス。(投手三冠王がいながらもBクラスチームは、この年の国鉄以降も去年の楽天等数えるほどしか存在しない。)チーム防御率もリーグワーストと天皇の異名を持ったのも頷けたと言うか、まさに「金田あっての国鉄スワローズ」でした。1959年も、5月頃までは2位につけており、最終的にはAクラス・5割ともにあと少しというところまで行きましたが、この年は阪神・中日には善戦したが、巨人には8勝18敗と久々に大きく負け越し、独走の形となったリーグ5連覇・巨人第二期黄金期最後の優勝をアシストする事となりました。(1954年にも優勝していれば「V9」であった。)その巨人のチーム力が落ちてきた1960年も、オールスターまではAクラスを維持していましたが、最終的には勝率3割台の最下位転落となり宇野監督はこの年で辞任しました。宇野は、翌年には日本シリーズの采配をめぐって永田雅一オーナーと対立した西本幸雄前監督の後任で、大毎オリオンズの監督に就任しましたが、ベテランに甘く、若手を見下す態度が須藤豊等一部選手の反感を買った事もあり、2年連続Bクラスで辞任します。結局監督生活全てBクラスだったわけで、特に国鉄時代は「前半戦まではそれなりに善戦するが、後半戦は失速して結局定位置におさまる」パターンが目立ちました。その大きな要因の一つは、「選手層の薄さ」であり、大毎でも優勝しながら前任監督がクビになったという悪い雰囲気(永田は周知の通り、「世紀のトレード」をしたり、東京球場を建設したりするなどしましたが、結局本業の映画がにっちもさっちも行かなくなり、球団も手放し、大映も倒産した様です。)の中で貧乏くじを引かされたという酌量の余地はありましたが、この人が有能な監督といえたかどうか?甚だ疑問ですね。巨人を放出されたというわだかまりは後年解け、実際大毎の監督辞任直後に古巣に2軍監督(前述の須藤は大毎時代に宇野氏と確執を起こし、2軍落ちとなったあと巨人にトレードされたが、ここでも同じユニフォームを着た事となる。)として戻り、その後は当時の監督・水原茂氏が中日監督に就任した際に2年間コーチを務めましたが、4位・5位に終わっています。彼が亡くなったのは1994年4月17日。後身のヤクルトの2年連続リーグ優勝・2度目の日本一を見届けた後の事でした。

宇野監督辞任後、砂押邦信監督を迎えた1961年ペナントレースは巨人に11勝13敗2分と再び善戦し、9月始めごろまで巨人・中日と優勝争いをして最終的には初のAクラスいり(3位)を果たしました。翌年は再び最下位転落となりましたが、1963年は、西鉄V3戦士の一人・豊田泰光選手と巨人から2年連続打点王の実績があった宮本敏雄選手を獲得、結果的に豊田選手は衰えるのが早く、宮本選手も打棒復活はならず、飯田選手もこの年限りで引退しましたが、阪神とほぼ最後までAクラス争いをし、ON砲が本格的に完成した巨人にも16勝12敗と勝ち越しました。しかし、これが結果的に2度目で最後の、「国鉄スワローズ」としての巨人戦勝ち越しとなりました。1964年、金田選手は14年連続20勝を達成しましたが、B級14年選手制度を活かして巨人に移籍、背景は経営に次第にかかわってきたフジ・サンケイグループの人事権介入などに対する不満でした。国鉄は翌年途中にサンケイスワローズに球団名を変更、この年からあの巨人V9が始まるのですが、7勝21敗の惨敗に終わりました。以降1974年まで11年連続負け越し。1967年にも3勝23敗、別所毅彦監督時の1970年にも5勝21敗と惨敗し、国鉄時代のような意地を見せることは出来ませんでした。(ただ、1973・1974年には比較的善戦した。)スワローズに春が来たのは、アトムズへの変更を経てヤクルトスワローズとなった時だったのです。

かなり長くなってしまいましたが、広岡監督時代の初優勝・80年代の低迷・野村監督時代の黄金期を経て、再びヤクルトは国鉄末期~アトムズ時代のような「ジャイアンツコンプレックス」に陥っているといえます。CS制度のある現在では、3位までなら日本シリーズにいける可能性はありますが、そのためには絶対にこうした「ジャイアンツコンプレックス」を克服するのは避けては通れない関門だと思います。しかし、勿論私は「犬ルト」などと低次元な揶揄をするつもりは毛頭ありませんが、現実には中日には大きく勝ち越している事もあり、そうした巨人3連覇への道をアシストしている形となっています。前述の11年連続負け越しは球団ワースト記録であり、その更新の可能性もありますが、果たして今年こそそれを克服できるのか?今シーズン別人のような成績しか残せていない青木宣親選手の弁当が話題になるのもどうなのかな?とも思いますが・・・・

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受信: 2009/08/12 03時05分

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